怖い。
そう一言溢して彼女は肩を震わせた。俯いた彼女の表情は見えない。その細い顎を指先で掬って上向かせれば、きっと悲痛の表情を窺う事が出来るだろう。彼女の全てを手に入れてしまいたい。笑顔だけでは足りないのだ。苦しみや悲しみに染まった表情も欲しい。この脳裏に焼き付けて彼女の全てを手に入れたと云う愉悦に酔いたい。彼女には歪んでいるだの悪趣味だの罵声を浴びせられそうだが、男の性とはそう云うものだ。噛み付いて来るだろう彼女には諦めるんだな、と一言吐き捨てるだけだ。しかし、それだけで彼女が引き下がるとも思えない。確実に状況を悪化させて怒涛の口論へと発展するだろう。彼女の口の悪さも中々のものだ。女の子がそんな言葉を使っちゃいけない、と何度窘めた所で彼女は改めようとしない。その原因は少なからず自分に在るのだ、と知らぬ訳ではないが、こちらとて改める気はさらさらない。つまりはお互い様と云う事だ。彼女は納得しないだろうが。

「お嬢さん」
「………」
「顔を上げてくれないか、お嬢さん」
「………」
「アリス」

名前を呼ぶと彼女の細い肩が微かに跳ねた。そして、返事の代わりに頭が振られる。答えはノーらしい。頭を振った拍子にきらきら、と散った滴が泣いている何よりの証拠だと云うのに彼女も大概往生際が悪い。彼女は泣いている事実を知られたくない訳ではないらしい。いや、知られたくはないんだろうが、取り繕うのは今更だと気付いているんだろう。
(だから、せめて泣き顔は晒したくない、と?)
彼女の強情さは今までに何度も目の当たりにして来たが、こんなにも苛立ちを生むものだっただろうか。………まぁ、充分苛立った気もするが、ここまでではなかった筈だ。少し考えさせられた事実は置いておくとして、私は彼女の顎を掬おうと手を伸ばした。ぱしっ、と乾いた音が響く。案の定彼女の手に拒まれてしまった。布越しだからか余り痛みは感じない。しかし、苛立ちを増幅させるには充分だった。

「アリス、顔を上げなさい」
「っ、」

けして声を荒げたりはしない。怒気を孕ませてゆっくりと圧を掛ければ良い。

「上げるんだ」

もう一度促すと彼女はおずおずと顔を上げた。視線を合わせようとしない瞳は潤み、頬には涙の跡がはっきりと残っている。そして、その跡を辿ってまた一筋の涙が伝った。彼女の泣き顔を見る事が叶って苛立ちは拭われて行ったが、それとは別にもやもやとした感情が頭を擡げる。欲しかったものが手に入ったと云うのに満たされない。もどかしさが喉の奥で蠢いて軽く息が詰まる。思わず溢れそうになった舌打ちを飲み下し、どうにか溜め息だけに留めた。厄介だな、と内心毒づく。これは自分の嫌いな面倒事だ。不可解なもの程面倒なものはない。だから、この感情も面倒でしかないのだが、どうも彼女の事になると自分は面倒事にも足を突っ込みたくなるらしい。
(本当にこのお嬢さんは私を退屈させない)
目尻に溜まる滴が伝い落ちる前に指先を伸ばした。今度は払われる事はなかった。肌を覆う白い布に滴が染み込んで行く。

「何故、泣くんだ」
「…云ったでしょう?怖いの、よ」

相変わらず逸らされた儘の視線。だが、珍しい事に彼女は素直に口を開いた。先を促すまでもなく彼女は続ける。

「あなたが、いつ死んでも可笑しくない人、だから」
「!……、」

マフィアは安全とは程遠い職業だ。そのトップに立つと云う事は常に死と隣り合わせと云っても過言ではない。日々を共に過ごす内に彼女の中でマフィアが如何に危険な職業かが薄れてしまっていた様だ。殺伐とした雰囲気からは程遠い屋敷内で、エリオットや双子達に好意を惜しみなく注がれていれば仕方のない事に思える。彼等はマフィアの顔を彼女に晒さない。出会った頃はどうであれ、彼女を客人として屋敷に迎えてからの彼等の彼女に対する態度は何処までも好意的だ。そう、時に私を苛立たせる程に。だから、彼女の意識からマフィアに対する警戒心を解きほぐすには充分だったんだろう。

「それについては否定はしないさ」
「ブラッド、」
「否定はしないが、もう泣くのは止しなさい」

止め処なく溢れる滴を指先で吸い取る。涙を含んで白い手袋が重みを増す。

「私は簡単にくたばったりしない。そうだろう?お嬢さん」

宥める声色が思いの外甘くなる。それに少しばかり苦笑しながら、開き掛けた唇を言葉毎奪う様に自らのそれで塞いだ。





【いつの日か訪れる死を君が悼んでくれるなら】



(私の死を怖れて泣くなんて、随分と熱烈な告白じゃないか)


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -