耳を欹てて、そっと瞼を閉じた。
呼吸を拾い上げ、そっと瞼を開ける。
瞼を開けた向こうで彼が静かに笑っていた。それは微かで、気を付けていないと見落としてしまう程で、呼吸を止めた。僅かな空気の震えすら、その微笑を崩してしまう。そんな気がした。
喉の奥がくっと詰まる。このざわめきは何だろうか。あの、灰色の世界が発生したときに似ている。携帯は鳴らない。
長机を挟んだ向こう側、彼はパイプ椅子に腰掛けている。机上にはチェス盤。それは普段と変わらず、ただ、窓辺で読書をする彼女も、甲斐甲斐しくお茶汲みをする彼女も、そして、神すらこの空間には存在しない。呼吸音が二つ、あるだけだ。
「次、お前の番なんだが」
とんとん。彼の指先がチェス盤の角を叩いた。その音にはっと息を吸う。
「これはすみませんでした」
「いや、別にいいけどな」
お前の間抜け面も拝めたし。微笑をいつの間にか仕舞い込み、彼は何気ない声色でそう告げた。
とんとん。彼の指先が再びチェス盤の角を叩く。そこに急かす色はなく、何か思案するように彼は目を細めた。
「…間抜け、ですか」
「ああ、それはもう、うちの団長殿に見せて差し上げたかった程にな」
「それは、」
口元を手のひらで覆った。いけない、と自らを叱咤する。彼女がいないからと気が弛んでいたんだろうか。気を引き締めるように奥歯を噛み締めると、古泉、と彼が僕の名を呼んだ。
「な、んでしょう」
声が少し上擦る。ポケットの中の携帯は沈黙を守った儘、ただ、ざわめきだけが止まない。
とんとん。彼の指先が三度チェス盤の角を叩いたかと思うと、パイプ椅子が軋みを上げた。立ち上がり、長机に片手を突く。身を乗り出すように、彼のもう一方の手が僕へと伸びた。彼の指先が眉間に触れる。熱がじわりと滲んだ。触れ合う部分だけが妙に熱い。
「眉間に皺、寄ってるぞ」
「  、」
口端を吊り上げて、彼が笑った。悪戯に成功した子供のような、普段の彼ならけしてしないだろう笑顔。どくり、心臓が大きく脈打つ。思考に空白が生じ、徐に遠ざかる彼の熱を無意識に掴んだ。握る手のひらが熱を孕む。
「待って下さい、待って」
焦っているような、それでいて酷く冷静なような、妙な声だと思った。瞠目する彼をその儘に自らも腰を上げる。彼との距離をこれ以上狭めさせまいとする長机が邪魔だった。しかし、それすらも構っていられない。余裕が、なかった。
「古泉、お前、何…」
「どうしてくれるんですか」
「は?」
掴んだ腕をぐっと引き寄せる。彼はバランスを崩し、机上に突いていた彼の手がチェス盤とぶつかった。盤上の駒が倒れ、転がり、幾つも床に落ちる。
「おま、あぶな…っ」
「どうしてくれるです、」
気が付いてしまった。このざわめきの正体に。気が付いてしまった。この感情の、名に。
「こ、いず」
最後の音を食らった。彼が息を詰めたのが、身体を強張らせたのが伝わる。ああ、そんなに見開いたら、目が零れ落ちてしまうんじゃないですか、なんて胸中の呟きが彼に届く筈もない。

(盤上に残るクイーンを指先で弾いた)




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