おかえりなさい


春を夏を秋を冬を閉じ込められたなら、と焦がれた指先は彼の頬を掠めた。
微睡みから覚めて、先ず視界に入った彼に触れたのは、昨夜満ち足りたばかりの月が、閉め切ったカーテンの向こうで放つ輝きへの畏怖からかも知れない。
知らぬ間に様々な色に彩られ濁った指先が彼を汚す。
まるで屍の様に床に転がった自らの肢体の傍らに月をなくした夜が膝を折っていた。
レンズ越しの闇色の双眸が僕を映し、彼の肩越しの照明が部屋を照らす。
その眩しさに目を細めると、彼は僕の汚れた指先を自らの手のひらでそっと包んだ。
伝わる温もりが与える安堵感に眩暈を覚え、それが自分だけのものなら良いのに、と頭を擡げた欲が密かに内にくすぶる。
傍にいるだけで幸せで、それ以上に望むことなんてない。
それを綺麗事だ、と誰かが笑った。
締め付けられた心臓が訴える痛みすら、所詮は紛いものでしかなくても、彼を愛しく想うこの感情だけは否定されたくはない。
一度きつく閉じ、ゆっくりと開けた瞼の先で彼は微笑み、僕の名を紡いだ。
応える様に身を起こそうとしたが、先ず肘を突こうとして失敗した。
床に仰向けの状態が続いたことが祟ったのもあるのか、酷い疲労感に身体が思う様に動かない。
それを察した彼が手を貸してくれ、それを支えに何とか上体を起こす。
彼は床に散らばる絵画道具を一瞥し、相変わらず凄いね、と零した。
「描いてると幾分マシだから」
要するに何かに没頭していれば、襲い来る波が少しは穏やかになる。
塞ぎ込むことでしか周りに危険を及ぼすことを回避出来ない自分の、せめてもの抵抗だ。
何もない時間が一番危険なのだ、と自覚してからは、ただ、筆の動く儘にキャンパスに色を置く。
自ら閉ざした扉の向こうで、心配してくれる誰かがいるのなら、奥底に巣くう本能に負けたくはない、と強く思った。
「あのね、ニコフ」
手のひらで撫でられた頬が擽ったくて、知らず頬が緩む。
「なに?」
「僕ね」
「うん」
「また君に会えて嬉しいよ」
一瞬の空白、そして瞠目。
レンズ越しの闇色に灯る優しさを彼自身は知らないのかも知れない。
それでも、確かな優しさが愛しくて仕方ない。
大事な仲間がいる。
そのひとりを愛しく思う。
みんな、いつも僕の傍にいてくれる。
「おかえりなさい」
幸せで泣いてしまいそうだった。

(みんな、君の帰りを待ってるよ)



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