ライラックの木のしたで







改めて近くで見るその花は、ことさら見事に紫色がかっていて、私が今までみてきたどんな花の色よりも綺麗に思う。
おもわず近寄って、不躾に幹をゆさぶってみると、紫色に彩られた花弁がひらひらひら、と何枚か落ちてきて、君と私の髪の毛にあらたな色を加えた。
そのときの君が、仕方なさげに笑ったヒロトの顔が。
「あはは、俺も名前も、変なの」
とっても、綺麗ね。



多分、小学校四年生とか三年生とか、その辺り。人によってばらつきはあるだろうけれど、個人的に最も記憶が曖昧な時期のことだから、回想において重要な部分を所々無意識に端折ってしまうと思う。仕様が無い。
お日さま園の裏手にある、雑草やら緑が無駄にのびのびと育った小さな丘に、一本の木がぽつんと生えていた。その存在を知ったきっかけは忘れてしまったけれど、遠くからぼーっと見ているだけで、子供心に冷たい隙間風がぴゅうと吹いたのを覚えている。
普段からあれを見る機会がそうそうあるわけじゃなかったし、心落ち着くような風景なわけでもなかったしで、よく考えるまでもなく、その木は幼い私にとってすぐに忘却される類のものだったはず。が、どういう好奇心が働いたのか、ある日たまたまなんらかの用事で裏手に出た際に、たまたま一緒に居たヒロトへこんな質問を投げかけていた。「ねえヒロト、あれ、何か分かる?」さわさわとなんとも寂しく葉を揺らしている一本樹を見ながら、私が考えなしに言葉を発した瞬間、何事かに着手していたヒロトがこちらを振り向き、次いで私が見ている方向に視線を飛ばした。「え?うーん、木、だね」「ばかにすんな、それくらいわかるよ。そういうことじゃなくって、あれ、なんの木?」「? ああ、」そういうことか、といった具合に手を叩いてから、もはや同い年とは思えないほどしゃんとした顔でなにやら思考した後、「おれもこないだ姉さんに教えてもらったんだけど、ライラック、ってやつだよ」「なに、それ」「そういう花がさく木なんだ。多分、もうちょっと暑くなればさくんじゃないかなあ。おれ、去年に見たもの」「ほおう……」それが確か、進級したての頃だったから。春とか、きっとその辺り。そして、やる事の終えたヒロトがいやいやをするのを無視してがっちりと手をつないで家に戻っ、た?まあいいか。まあいい。

「名前、やめてよ、だれかに見られたらばかにされる……」「うるさい」「あいたたた。ごめんよ、名前」「うむ、ゆるす。ねえヒロトヒロト、ゆるすついでに、ね」「何?」「もうちっと暑くなって、あれが咲いたら、丘までつれていってくれる?ヒロトだけ見たなんてずるいでしょう」
ぽっ、とわたしのむねの中でくすぐったく動くなにか。わたがしみたいないしころみたいな、ぐるぐるのたくったへびみたいな。しっちゃかめっちゃかで、わけわかんない。このパニックみたいなきもちは、ヒロトといっしょに居るとほとんどおきることだから、きっとヒロトのせいなんだろう。いいよ、と笑って返事をするヒロトの顔をみていたら、ひっぱたきたいようなぐーで殴りたいような、というむかむかした気持ちと、もう体のどこでもいいからべたべたくっつきたい、というあまえた気持ちがないまぜになって、わたしは思わずヒロトの顔にかみついた。そのときのヒロトのおどろきようといったら、もう。「!? わあ、あっ、わあああっ」
大あわてでにげてったヒロトがねえさんにちくったせいで、わたしはめたくそに怒られた。すっきりしたし、別によかった。「……もう、ヒロトが女性恐怖症になったら名前のせいよ」「なあに、それ」別によかった。

一週間後、ヒロトがあの日以来わたしを避けていることがはんめいした(はるやがおしえてくれた)ので、なかばキレながらあやまったら、「うん、いいよ」とあっさりゆるしてくれた。これは意外、大げんかになると予想してたから。
それからとくに何もなくて、気付いたら外をあるくにもじんわりと汗がまとわりつくようになっていて、さっそくヒロトに声をかけようと思ったんだけれど、その時期からヒロトが父さんや姉さんといっしょに居なくなることが増えていた。その日のうちに帰ってくることもあれば、数日家に帰ってこないこともあったり、そのたびに学校を休んだものだから、わたしの中の不安はむくむくふくらんでいった。
「だいじょうぶ?」その、あまりにも異常といえば異常という状況に、心配してわたしが声をかけると、「うん、だいじょうぶだよ」わたしの言葉がたらないにも程がある一言から、かしこいヒロトはぜんぶぜんぶ汲み取って、にこっ、といつものように笑うだけだったから、わたしは何もしないまま、そっか、とだけ返して、おしまい。
それから、ヒロトの口からライラックの木という単語がでてくることは、無かった。
以来なんとなくしゃべる機会が減って、なんとなく高学年になって、そうしたら、……空白の日々、ということにしておきたい。
思い出したく、ないから。


「え?日本代表?ヒロトが?」
「ああ。響木という男から突然連絡が来て、行ってみたら、そういうことだったらしい」
「ふうん……」
サッカーの練習が終わった後、廊下でたまたま会ったついでの雑談に出てきたその話に、ずくりと胸が痛む。小さい頃煩ったばかばかしい病を、私はいまだに治療できずにいた。
「まあ、どういう方向に転がるにせよ、あいつにとって良い環境なのは違いな」
「玲名ぁ、頼むよ、そんなこと言わないで」
ヒロトが居なくなる、ここから、明日にでも。皆でかけずりまわってるグラウンドに、彼が居ない光景を頭の中に描いてみたら、それだけで涙がはじけるように流れ出てくる。
もう何年も会話していなくって、顔を見ているだけ。あの悪夢みたいな計画が終わってもそれは続いていて。ようやく普通に戻れたあとでも気まずくって、他の子たちのところに逃げていたのは、私だ。くだらない回想にはしって、日に日に広がっていく傷口をなんとか接合しようとしていたけれど、「もう、手遅れなのかなあ」ぎょっとした様子でこっちを見ている玲名にもかまわず、涙はどんどん量を増していく。そのうち、横からふう、というため息が聞こえてきて、「……あのなあ、今まで機会なんて大量にあったろうに、なぜ告白しない」「できるわけないじゃん!!玉砕するのなんてもう分かりきってるのにさあ」「探していたぞ、ヒロトが。勇気を出してお前に声をかけようとしたら、もう居なくなっていただと」「え」びたっ、と涙腺が一瞬にしてその活動を停止する。ほ、「本当に?え、何それ?嘘だったら殴るじゃすまな、」「こんなことで嘘をついて私にどういったメリットがあるのか言ってみろ。でだ、名前を見つけたら、約束の場所で待っていると伝えてくれだのと、大分思いつめた表情で言付けてきた。ああ、よかったな名前」「後半何言ってるか全っ然わかんないけど、ヒロトが呼んでたってことだね!?そうでしょ!?てゆうか、なんですぐ言ってくれなかったのさ!!」「万が一、ヒロトが地雷を踏むことになったら私的には大変愉快だが、それで日本代表の戦績に傷がついたら寝覚めも良くない。要は簡単な確認だ」私はなんだか若干いらだった様子で説明する玲名を見上げて、ええい、「いってくる!」なにも考えず、体面や外見なんて全く気にかけない勢いで、裏に出るための勝手口を目指してがむしゃらに走った。
経緯はどうであれ、知らせてくれた玲名にありがとうの一言も言っていないことはとっくに頭の隅に追いやられていた。廊下を駆け抜ける途中ですれちがった同じ園の子たちからの、奇異なものを見るような目線も、全く気にかからなかった。ヒロト、ヒロトヒロト、ヒロト!「うわああっ!!」私の中で、数年の間押し殺して感情が、一気に爆ぜた。半ば泣き叫ぶように声をあげて、鋼鉄製のドアノブに手をかける。

「あ」

じっくり体重をかけるようにして、ドアをのろのろと開いていくと、小高い丘の上に、幼い頃の私と彼を引き結んでいたあの木が存在しているのが見えた。
数年前とたがわず寂しげに葉をゆらしていて、でも一つ、明らかにちがっていたのは、その哀愁漂わす緑の葉を食いつぶすほど見事に咲き誇った紫色の、「ライラック?……」本来の色より若干橙がかったそれは、時間帯がもうちょっと違ったらさらに美しく空間を彩ったのだろう。
さきほどの号泣の残滓が一滴流れていくと同時に、湿気がシャツにまとわりつく。そうだ、もう、そんな季節だっけ。はた、と木の下に視線をやってみると、そこにもオレンジ色をもろにあびている、一つの鮮やかな赤色。「ヒロト!」ぴく、と赤だけが動く。私はもうまっしぐらに、久しぶりに話すんだから女の子らしいことを言わなくちゃ、とか、ドキドキする、とか、そういった乙女たらんことを考えるまでもなく、一切の思考型をかなぐり捨てて、それはもうひたすら走った。さっきから心臓がばくばくばくばく飛び出るんじゃないかってくらいに痛いのは、きっと過度な運動のせいだけではないはず。
足に草がひっかかって、つん、とした痛みが走っても、もつれて転びそうになっても、それでも、私は!「わっ」ようやく丘をのぼりきるか、という辺りで、なんとも無様に転倒してしまう。駄目、早くしないと、ヒロトが居なくなっちゃうような、そんな気がして、「……大丈夫?」ふっ、と頭上に影ができたのがわかる。それとほぼ同時に手が引っ張り上げられて、顔をあげると、そこには、あの日と変わらない笑顔の。

「久しぶりだね、名前」

「っていっても、顔だけはお互い毎日見てたか」「あ、ヒロト、あの、私」「どこか怪我していない?名前、頼むからどこか痛いところがあったら言ってくれよ」「ううん、平気!」どうにか喉のそこから出てきてくれた言葉は、規定以上の音量で、言った私すらも驚いて一瞬呆けてしまうくらいだった。目の前のヒロトは一瞬きょとん、と目を瞬かせたけれど、すぐに笑顔に戻る。「うん、そっか。なら良いんだ。……ほら、あれが、ライラックだよ」す、と綺麗な形の指が、後ろにある木に向けられた。
まるでなんでもないことのように、数年間のブランクなんて最初から無かったことのように、ヒロトは私にしゃべりかける。ああ、ああ。「約束、ずいぶん遅くなっちゃったね。……本当にごめん」いいの、とまともに返すことすらできずに、感極まった私は―――





「とっても、綺麗ね」
子どもみたいに花を頭にのっけたまま、私達は笑いあう。「変なんかじゃ、ないよ」「そうかな」ヒロトの指が、私の髪の毛を通っていく。ライラックの花が流れ落ちるように地面に向かっていくその途中で、突然ふいた夕刻の風にさらわれ、どこともしれない橙色の闇に溶けていく。その様子を見送ったあと、私達はお互いの瞳をじっと覗き込むように顔を合わせる。「ヒロト、私、もしここに君と来れたらずっと言おうと思ってたことがあるんだ」「待って!」いきなりの制止の声に、決意が少しずつ萎縮していく。びくん、と人形のように口をつぐんだ私を見て、ヒロトは尚も笑顔で、「だめだよ、これだけは俺が言わなくちゃ」待たせちゃったせめてものお詫び。そう言ってヒロトは、こちらの肩を優しく掴んで、引き寄せる。
「名前、俺、小さい時からずっと君のことが」
ライラックの木の下で、君との時間が動き出す音を聞いた。


20100920



















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