なまえは昔から何かと言えば「ふうちゃん、ふうちゃん」と、いつも私の後ばかり着いて歩いていた。他の女子たちが人形遊びやままごとで遊んでいる時にも、なまえは決まって本を読んでいる私の横に座っては、下手くそな鼻歌を歌いながらクレヨンで絵を描いていた。私はそれがうっとおしくて、何度もなまえを邪険に扱うのだが、なまえはにこにこと笑って私から離れようとはしない。最初こそ突き放してやろうとあれこれ奮闘していた私も、遂には白旗を上げ、完全に降参してしまった。それくらいなまえは手強かったのだ。
それからなんとなくなまえといるようになった私は、それはもう散々と苦労をさせられた。何でもない場所ですぐ転ぶから、私は常になまえを見張っていなければならなかったし、頭もそう良くはなかったため、テストの前日には付きっきりで勉強を教える羽目になった。能天気だし、触るなと言っているものにすぐ触ろうとするし、まるで手のかかる妹のようで、気付けば私は常になまえのことにばかり気を回すようになっていた。なまえといる時は“遊んでいる”というよりも“世話をしている”の感覚の方が近い。面倒には変わりなかったのだが、それでも無邪気に笑っているなまえを見ている内に、私はそれも悪くはないかもしれない、と考えるようになっていたのだ。

これまでずっとそうだったから、これからもきっとそうなのだろうと、そう思っていた。
だから今の現状には解放感より脱力感より何よりも、苛立ちがはるかにそれらを上回っていた。



◇ ◆ ◇



「最近ピリピリしてるね」

午前の授業が終了し、昼休みに突入した教室は、がやがやと大いに賑わいを見せている。
机に頬杖をついたヒロトは、口の中のサンドイッチを飲み込むなり、そう言ってため息交じりに微笑んでみせた。訝しげな顔をする私に、ヒロトは緩やかに口角を上げる。

「別にピリピリなどしていない」
「じゃあ敢えて教えてあげるけど、近頃の風介はこれでもかってくらい不機嫌オーラを出してるよ」

ヒロトはにこりと笑って「いつも眉間に皺が寄ってる」と楽しそうに呟いた。…そんなに私はわかりやすいのだろうか。なんだか決まりが悪くなって、手持ち無沙汰に自販機で買ったパックのコーヒーを啜る。喉が潤されていくのを感じながら、私は窓の外に目をやり、翻るカーテンの向こうに広がる晴れ渡った大空を見上げた。青く澄んだ空には、薄く伸びた雲が悠々と漂っている。それを見ながら私は、「くじら!」だの「ソフトクリーム!」だのとあれこれ形を当てはめて、きゃっきゃと笑っていたいつしかのなまえを思い出す。指を差しああだこうだとはしゃいでは、風が吹いて雲の形が崩れる度にしょんぼりと肩を落としていた。あの光景はいつ思い返しても、つい笑いが込み上げてしまう。なまえは昔から、本当に馬鹿な奴なのだ。
そんなことをぼんやりと回想しながら、ふと我に帰り視線を教室に戻すと、ヒロトが私を見ながらにやにやと薄気味悪い笑顔を浮かべていた。私はまたも決まりが悪くなって、誤魔化すように何度か咳払いをする。そんな私にヒロトはふふ、と喉を鳴らした。

「それじゃあ確かに面白くないよね」
「……何が言いたいんだ」
「この頃#name#ちゃんと晴矢が仲良いの。風介が不機嫌なのって、あれが原因でしょ?」

……私は、ヒロトのこういう所が苦手だ。
じっと押し黙ったまま、私はヒロトを睨みつける。ヒロトもよくそれを把握しているらしく、「難儀だね」とおかしそうに呟いては、右手のサンドイッチをまた一口口に含んだ。
私はイスの背に凭れて、思考の波の狭間に揺られる。別に、なまえと晴矢が仲が良いことが悪いことだとは思っていない。晴矢はあれで案外世話好きだし、性格だって底抜けに明るい。馬鹿っぽい所も似ているし、なまえが晴矢に懐かなかったのが寧ろ不思議なくらいだ。だから二人がどれ程仲良くしようが構わない、と、思っている筈なのに、何故だかそれが無性に気に食わなくもある。怒り、ではない。淋しい、ともまた違う。けれどじゃあ何なのかと問われると、全ては靄がかかったように不明瞭で、小骨が喉に刺さったような、そんなむず痒さすら感じてしまう。だから訳もわからずに、苛立ちばかりが募ってゆく。

「あ」

ふいにヒロトが声を上げて窓の外、グラウンドの方へと目を向ける。つられて視線を追うと、校庭の脇のコンクリート道を真っ赤な髪と見なれた後姿、晴矢となまえが並んで一緒に歩いていた。

「なんだか楽しそうだね」

ヒロトの言葉に私はそうだな、と答えた。ような気がする。或いは答えていなかったかもしれない。妙に呆けた心地で、私は窓の外を眺めていた。此処からでは二人の会話を聞き取ることは到底できないが、随分と和やかな雰囲気だ。なまえもにこにこと相好を崩している。それをぼうっと見やりながら、私はここ最近、なまえの笑った顔を近くで見ていないことに気付く。そして笑顔はおろか、会話さえ数える程度しかしていないという事実にも気が付いた。少し前までは、飽きる程一緒にいたような気がするというのに。
肩をトントンと叩かれて、ふっと意識が戻る。頭をもたげると、いくらか眉を下げたヒロトが「ストロー」と言って、困ったように笑っていた。頭の上に疑問符を浮かべる私に、ヒロトはもう一度苦笑すると、私のパックのコーヒーを指で差す。

「ストロー、さっきから噛んでるよ」

ヒロトに指摘され、私はストローから口を離す。まじまじと眺め、すっかり中身が軽くなった容器に挿されたストローの先がボロボロに折れ曲がっていることに、そして、言われてようやくそれに気付いたことに、思わず瞠目してしまった。呆然とした私にヒロトが再び呟く。「……難儀だね」



◇ ◆ ◇




そうして私の不明瞭な感情はいよいよ拍車がかかり、着々と溜まっていた苛立ちも、最早ピークに達していた。一度なまえと話をしようと思うにも、少し前まであんなにちょこまかと付き纏っていたなまえは、この頃どうやら私を避けているらしく、なかなか掴まえることができない。……あのなまえが、私を避ける?考える内にだんだんと腹が立ってきて、八つ当たりをするように、私は壁に拳を打ちつけた。大体なんだ、あの女は。今まで散々世話をかけさせて、今更余所に乗り換えるつもりか。小さい頃、登った木から降りられなくなったのを助けたのは一体誰だ。犬に追いかけ回されていた時も、足を滑らせて溝に落ちた時も、助けてやったのは一体誰だと思っているんだ。私がいなければ、なまえなんて今頃とっくにその辺でくたばってしまっているだろうに。何も感謝しろ、と言っているわけじゃない。けれど避けられるのは、それだけはどう考えたって腑に落ちなかった。

どうにもこうにも発散できない苛々を持て余しながら放課後の廊下を歩いていた私は、幸か不幸か、角を曲がった階段の先の踊り場で思いがけず、この階に降りてきたなまえとはち合わせることとなった。

「……ふうちゃん」

ぱちぱちと数回瞬きしたなまえは、まるで何事もないかのように、ぽかんと間抜けな表情を浮かべている。一方の私も、突然のことに頭の中を真っ白にしながら、どこか放心したようになまえ、とその名を呟いた。
束の間、二人の間に奇妙な沈黙が流れる。その間にも、何処かで練習しているであろう吹奏楽部の演奏や、野球部のバットを打ち鳴らす音、パタパタと校内を走る足音や誰かの笑い声、様々な雑音が耳の奥に入り込んでくる。それらは放課後の風景には似つかわしく、反対に今の私にひどく場違いな印象を抱かせて、絶えずこの廊下中に響き渡っていた。
向かい合ったまま、互いに口を開こうとはしない。そして私はようやくなまえの顔が見られた、という感覚に、なんだか変な心持を覚えていた。……これまでのわだかまりは全て錯覚だったのだろうか。そんな気さえ起こし始めたその時、ふいになまえが瞳を泳がせた。

「じゃ、じゃあわたしもう行くね!」

挙動不審ななまえの態度に、私は先程までの迷いを瞬時に打ち消す。そして同時に機嫌を悪くした私は、なまえの前に立ちはだかり、すり抜けようとするその逃げ道を塞いでやった。やはり、気のせいなどではない。分かりやすく狼狽したなまえは、困惑したような表情を浮かべ、おろおろとその場に立ち尽くしている。そんな様子すら癇に障ってしまって、私は不機嫌さを隠すことなくなまえに話しかける。

「最近、随分晴矢と仲が良いね」

口に出して、私は思っている以上に自分がこの件を気にしていたことを自覚して、いささか恥ずかしくなった。しかし、それまでゆらゆらと視線を彷徨わせていたなまえは、私の言葉に一瞬きょとんとすると、心底不思議そうに私を見る。「……晴矢くん?」予想外のその反応に、それとなく構えていた私はいくらか拍子抜けする。なんというか、もっと焦ったような反応が返ってくるかと思っていたのだ。わけもなくほっと一息するも、かと言って募り募った苛立ちはそう簡単に消えるものでもないらしい。まるで蔓延るかのように、胸の辺りには依然むかつきが広がっている。

「やたらと楽しそうだけど、いつも何を話してるわけ?」
「え、あ、晴矢くんには相談を聞いてもらってるだけで…」
「相談?一体何の」

そう尋ねる私に、なまえはしまったと言わんばかりの表情を浮かべた。そして再び視線を反らすと、あからさまに顔を伏せる。前髪がさらりと傾いて、そんななまえの顔を覆い隠す。
分からない。多分私は今、色んなことに腹を立てている。まずはなまえがなかなか私の目を見ようとしないこと。次に晴矢には出来る相談を、私には言えないこと。そして何より、私の前で、なまえがいつものように屈託なく笑わないことだ。ぐっと眉を顰めた私は、確かにヒロトの言う“ピリピリしてる”状態なのだろう。浅く息を吐いて、気を紛らわすように髪の毛をがりりと引っ掻く。そんな空気を感じ取ったのか、なまえがびくりと肩を震わせる。私はもう、自分でも何がしたいのかが分からなかった。別になまえを責めたいわけでも、ましてや怖がらせたいわけでもない。けれど現状として今私がやっていることは、おそらく限りなくそれに近いものなのだろう。考えたら全てが虚しくて、悉く空回る自分に、自嘲の笑みすら浮かべてしまった。

「……悪かった。もう聞かない」

努めて冷静な態度を装って、私はくるりときびすを返す。これ以上はいたずらになまえを傷付けてしまうだけな気がして、言葉を発することも、なんだか憚られてしまったのだ。
考えてみれば私達も、もう以前のように慣れ合う年齢ではなくなったのかもしれない。今はなまえも随分と友達が増えたし、昔のようにただ無鉄砲に走り回ることもしなくなった。それに、何も決まって私が傍にいることはない。晴矢もいるし、ヒロトもいるし、世界にはそれこそ山ほどの人間が存在する。そう考えればなまえに気を揉まされる役目をようやく終えたことを、私はきっと喜ぶべきなのだ。そんな詮無いことを考えて、それが出来ない自分が滑稽でまたおかしくなる。なんだかんだと難癖を付けながら、私もまた、しっかりとなまえに寄り掛かっていたのだ。

立ち去ろうとしたその時、ふいにワイシャツの後ろをつん、と僅かに引っ張られた。振り返ると、なまえの細っこい腕が此方に伸びて、私の背中の辺りをそっと掴んでいる。そしてゆっくりと顔を上げたなまえに、私は思わず目を見張った。白い頬を真っ赤に染め、堪えるように唇をへの字に結んだなまえの顔は、今にも泣き出してしまいそうだったからだ。

私は記憶の中のなまえを呼び起こす。なまえはいつだって「ふうちゃん、ふうちゃん」と私の後を着いて歩いて、何度邪険に扱おうと、いつもにこにこと笑っていた。気付けば散々世話を焼かされて、私は本当に苦労していたのだ。その中でなまえの泣き顔だって、それこそ数え切れないくらいの回数を目にしてきた。ぐずるなまえをあやしたことだって何度もある。だけどこんな表情のなまえを、私は今まで一度も見たことがない。というより、私は一瞬目の前の女の子を、なまえだと認識することができなかったのだ。

「ふうちゃん、」

もう飽きるくらい聞いたその名前が、生まれたてのような新鮮さを帯びて鼓膜を揺らす。私は先程から妙に落ち着かない気分でいて、握った手のひらにはじわりと汗が滲んでいる。なまえは、こんなに、小さかっただろうか。脳とは全く別の意識が、あれこれと勝手にものを考える。くっとワイシャツを握りしめたなまえの指先が、かすかに震えていた。

「おいていかないで」

そうしてゆらめくなまえの瞳とぶつかった瞬間、あんなにも暗雲を立ち込めていた筈の苛立ちが嘘のように、一つ残らず消え去った。ずっと靄がかっていた感情が、呆気なくその正体を現す。蓋を開けば実に明快で、情けなくて、ごく単純な理由。私はようやくそれが何なのかが分かった。分かってしまった。

「……おいていかないよ」

そう言ってなまえの頭に手を乗せて、くしゃくしゃと髪を撫でてやる。慣れ親しんだ感触が、手のひらを通じて伝わってくる。しばらく固まっていたなまえも、次第に口元を綻ばせ、やがていつものようににこにこと、なだらかに目を細めて笑った。まるで浸透するかのように、心が満たされていくのを実感する。そしてそれを眺めながら、私はなまえの頭をぐっと下げた。「……ふうちゃん?」不思議そうに名前を呼ぶなまえに「何でもない」と返す。空いた方の手の甲ですっかり熱くなった頬を押さえ、人知れず溜息を洩らした。こんな顔、絶対に見られるわけにはいかないのだ。


とびだせしょうねんしょうじょ



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