きょろきょろと通路の端から端まで見渡し、誰もいない事を確認すると、キルケは談話室の扉を閉めて、近くのソファに座わった。
「んぁー…」
ポケットから小さな手鏡を取り出して、キルケは口の端を指で引っ掛けて、痛い程に伸ばしながら、じっと手鏡に映る自身の口…特に犬歯を凝視する。
「あー、やっぱりいつもどおり…かな?」
『なにやってるの?』
「ひぎゃ!?」
音もなく後ろから首に抱きつかれて、キルケは思わず悲鳴をあげた。けれど、耳元で聞こえた声の主がリヴだとわかると、すぐ傍に来るまで気づけなかったのは、談話室の扉をそっと開けてから、浮いて接近してきたからだと納得してホッと胸をなでおろした
「もう…驚かせないでよー」
『ふふ、ごめんね?それで、何してたの?』
小さな謝罪の後に聞かれた質問に、キルケはバツの悪い顔をした。しかし、その原因すらも分かっているかのように、リヴは不思議な顔をせず、不敵に笑いながらキルケの答えを待った。
「いや…えっと…なんでもない、よ?」
『そう?…ちなみに言っておくけど、私に噛まれたからって、吸血鬼になったりはしないからね?』
「えぇ?!そうなの?!」
それとなく言ったリヴの発言に、キルケは声を荒げて反応した。それは最早、気にしていた内容を暴露したも同然な反応で、後になってから「あっ」とキルケは顔をしかめていたが、もちろん、わかってて言ったリヴはおかしそうに笑みを浮かべていた
『だから、心配しなくてもいいよ?』
「心配は…してなかったんだけど」
『けど?』
「ほら…私普通の人間だから、私も…リヴちゃんと一緒な吸血鬼になれたらいいなって…」
平凡だからこそ望む異常。それが例え、敬遠や畏怖される存在だとしても、リヴに向けられたキルケの視線は羨望だった。その瞳に、リヴは目を瞬かせた後、ゆっくりと口元に弧を描いた。チラリと見えた鋭い犬歯が、なお妖艶さを増していて、キルケは密かに息を飲んでいた。
『…変わってるね』
「あはは…それはよく言われてる」
「ついこの前も他の住人に言われた」と苦笑するキルケと、そのままリヴは談笑をしていた。けれど、不意にリヴが、開けっ放しのドアの方へ視線を向けた。
「?…リヴちゃん?」
『…ううん、なんでもない。ねぇ、今日もちょっと血をちょうだい?』
「え、え?!何でその流れに?!」
「こーら、リヴ!」
遠くからピシャリと届いた声に、犬歯をのぞかせた口をリヴは閉じた。そして、同時にふわりと浮いた体は、リヴの意思ではなく、レール伝いで近づいてきた審判によって抱きあげられたものだった。
「僕がちょっと目を離した隙に、他に目移りするなんてどう言う事だい?」
『はーい。ごめんね?審判』
手を合わせながら小首を傾げて謝るリヴに、最初はむすっとしていた審判だったけれど、ついには溜め息一つを零して苦笑いに変わり、そしてその視線の先はキルケへと向けられていた。
「怖がらせてすまないね。連れていくよ」
『怖がらせてないよ。…それじゃあまたね?』
「う、うん!またね?」
『もし、気になるなら、今度輸血パックあげるね?』
リヴを抱いたまま踵を返して進みだす審判に、「恥ずかしいよ」とするりとリヴは審判の腕からあっさりと抜け出していたが、そのまま宙に浮いて審判に並んで進み出していた
「…二人とも、いいなあ」
審判が現れた時に一瞬見せたリヴの嬉しそうな笑みも、腕の中にリヴを捕まえて、牽制の意味で一瞬見せた審判の珍しく冷たい笑みも、そして今、同じ高さで寄り添う二人の背に、キルケは小さく笑みを零しながら、キルケもソファから立ち上がり、いつか貰う血の味を楽しみにしながら、部屋へと戻って行った。