「ガール」
薄暗く、静まり返ったホテルの通路で、ポニーテールを揺らして歩く人物の背に向けて声が掛けられ、呼ばれたガールはくるりと振り返った
「リヴ?どうかしたの?」
『えっと…ちょっとごめんね?!』
「えっ?!な、なに?!」
呼び止められて早々、突然リヴがガールの背中目掛けて強く抱きつき、密着する。ふわりと、香水とは違う何か甘い香りに、同性ながらもドキドキしていると、不意にガラガラとレールをたどる音がこちらに向かってきていることに気がついた
「えーっと、リヴ?審判が来るよ?」
『…そうだね』
やけに淡白なリヴの返答に首を傾げていると、そうしている間に、二人の向かいの廊下の闇から、審判小僧が現れていた。そして、リヴたちが暗い廊下の中でしっかりと審判小僧が目視できる頃には、審判もこちらに気づいたようだった
「ほら、審判がこっち気にしてる」
首に抱きついてきているままのリヴにガールが声をかけたが『うん…』と、また曖昧な返事を返すだけで、訳が分からずガールが首を傾げていると、ついには歩み寄った審判との距離は詰められていた
「やあ、ガールに…それにリヴ、おはよう」
「お、おはよう…」
『…おはよう、審判』
いつも通りの声色の挨拶。けれど、本当にいつも通りであれば「ちょっとくっつきすぎ」と不服そうな審判の声が続くか、移り変わるようにリヴが審判の方に行くはずなのに、審判はいつもの表情を変えないままで、そしてリヴは、ガールの首に抱きつく腕の力を強めていた
「(……?)」
「それじゃあ、僕は訓練をしに行ってくるよ」
そういって、去り際にリヴの頭をぽんぽんとだけ撫でると、審判はそのまま二人の横を過ぎ去ってしまった。その背が廊下の奥の闇へと消えていくのを見送った後、ガールは怪訝そうにリヴの方へと向いていた。
「…いつもなら一目散にひっぺがしにくるのに。何かあったの?」
『うーん。あった、のかな…?』
「喧嘩したとか?」
『いや、怒らせるようなことした記憶はない、はず…うん』
自分の記憶が正しければ、一昨日に寝る前に談笑してきた時もいつも通りだった。それから昨日の朝、起きて最初に挨拶を交わした時ぐらいから違和感を抱いて、今に至っていた。
『…やっぱり、私が原因かな?』
「審判のことだから、リヴ関係に決まってるわよ」
ガールに当然のことのように言われて、少しだけくすぐったい気持ちになりながらも『様子見とく』とだけ伝えて、ひとまずリヴはガールから離れていった
それからは、やっぱりリヴにとっても、他のホテルの住民にとっても、いつもとは違う光景が続いていた。リヴと審判小僧の起きている時間が珍しく重なっているというのに、審判は訓練もそこそこに、空いている時間にリヴの元へ行くことはなく、けれど、避けているという様子はなく、廊下や食堂でリヴと会えば、軽い会話は交わしていた
「ねぇねぇ、審判のおじちゃんと別れたの〜?」
「審判のこと、嫌いになっちゃったの?」
会う人それぞれにも聞かれていたが、とうとうジェームス率いる子供達にまで聞かれるようになった。そこまで異様な光景なのかと思いつつ、一応「そうじゃないよ」と否定してきたが、段々その否定にも自信がなくなってきていた
『ねえ、審判…』
「ん?何だいリヴ?」
特訓が終わるだいたいの時間を見計らって審判に声をかければ、審判は相変わらずいつもの(今は異様に感じるけど)笑みを浮かべたまま、優しく返答した。その様子にモヤモヤしつつも、意を決して言葉を続ける
『あの…あとで話があるんだけど、いい?』
「…ああ、いいよ。丁度、僕からも話があったからね。あとで君の部屋に行くよ」
『(審判からも…?)』
まさか審判までも用事があるとは思わず、嫌に心臓が跳ねた。けれど、今は深く追求せずに『分かった』とだけ返答して自分の部屋へと戻った
『(こんなことって、初めてかも…)』
自分から審判に対して意識しだしたのは、審判が執拗にジャッジさせてくれるように頼み込んでからだった。それから今の関係に至るまでも、審判から歩み寄ってくることが多かった為に、普通の距離感にさえ困惑している自分がいた
『(審判の話…嫌いになったとか、そういう話だったら…)』
そんな事すら、想像した事がなかった。嫌に跳ねた心臓が今はズキズキと痛い。ひとまず落ち着かせようと一呼吸をおいていると
コンコンと、タイミングを見計らったかのようにドアをノックする音が部屋に響いた
「リヴ?入るよ」
『う、うん…いいよ』
なるべく冷静に返答したつもりだったけれど、まだ本心は冷静どころじゃなかった。ドアに対してリヴは背を向けたまま、審判がドアノブを捻って入ってくるのを気配で感じ取った。
『(…大丈夫。悪い話をしに来た訳じゃない…たぶん)』
心の中で必死に否定の言葉を並べる。そうでもしないと、自分の嫌な想像で浮かんだ審判の、現実では聞いた事ない言葉に心が折れそうで、自分に言い聞かせてから、やっと審判に向き直った。
そして、向き直って、後悔した。
困ったような、物悲しげな審判の表情を前に、第一声にだそうとした言葉すら、声にならずに消えて、思わず逸らすように目線を下へ下げた
『(なんで、そんな顔…)』
またズキズキと痛み出す胸を、抑えつけるように手を当てる。今度はしっかりと審判の顔を見てしまったから、頭を振ったところで、頭の中に残ったイメージを払拭するのは無理だった
『…あの、ね、審判』
やっと声は出せたけれど、何から切りだせばいいのか分からず、先に聞きたい事を必死に探していると。
唐突に、思考に次いで体が、動かなくなってしまった
『えっ…え?』
「はぁあああぁぁ…リヴ……」
耳元で聞こえる力の抜ける声に、やっと審判に抱きしめられたのだと理解する。ぐりぐりと肩口に頭を押しつける審判は、すっかりいつもの彼だった。むしろ、「悪化しているのでは?」と思えるほどの甘えっぷりに困惑しつつも、なされるがままにしながら、リヴは審判に声をかけた
『どうしたの?審判』
今度はすんなりと聞きたい事が聞けた。答えは急かす事無く、審判が切りだすのを辛抱強く待っていれば、一頻落ち着いたのか、また一深呼吸を置いて、審判はのっそりと頭を上げた。その顔は何処か気まずそうに、視線の先を彷徨わせていた
「…リヴ、この前来ていた人間の血が美味しかったって話してただろう?」
『?…ああ、あの子ね』
ここ最近新たに来た生きた人間のお客で、空腹で急に後ろから噛みついてしまった時に、酷く驚かせてしまったけれど、それでも事情を話せば、「また噛んでもいい」なんて言っていたから、珍しさに審判と話してた事を思い出す
『それで、嫉妬して拗ねてたの?』
「…そうじゃなくて、嫉妬しないようにしてたんだ」
『しないように?』
訳が分からず首を傾げていると、審判は益々言いにくそうにしていたが、ここまで喋っておいて、これ以上黙る事なんて無理だと思ってか、そのまま素直に意図を話してくれていた
「生きた人間の血の方が美味しい事は分かってる。それは、恋人の僕とはまた違う美味しさだって事も。そして、リヴにとって大切なその食事の対象を、僕だけにしてほしいなんて、拘る事も難しい事ぐらい分かってるつもりだ」
ジャッジする者として、相応しくない独占欲を持っている事は自覚している。けれど、だからと言って、他の誰かの元へ行かないように、自分だけの血を飲んでもらうように、ホテルの中にしかいないリヴの自由を奪って、ましてや閉じ込めるなんて事はしないと、審判の中で決意する程の理性は、まだ留めている。(リヴの父親が怖いのも事実だが、あくまでも自分の意思でその行動には移していない)
「だから、僕が変わらなきゃ。…いつまでも、いちいちリヴに噛まれた住人に、人に、嫉妬してるなんて…格好悪過ぎじゃないか」
内心を口にすることが恥ずかしいからか、とうとう審判は目も合わせないように、自身の帽子の裾を掴んで、目深に被った。けれど、話を聞いていたリヴは、審判が話してくれた理由に、どこか暖かい気持ちになりながら、宥めるように審判のその頭をそっと撫でていた。
『別にそんな事ないのに…』
「そんな事ある!実際、親分に目に余るって言われたよ…」
審判の口から出てきた人物の名前に、やっとリヴの中でいろいろ話が繋がってきていた。きっと、一昨日に審判と話をした後にでも、抜き打ちの特訓でもあって、その時に言われたのだろう。厳しい上司からの一喝…でもあるだろうけれど、リヴ自身、審判と付き合いだしてから、一緒にちょっかいを出されている身としては、大事な愛弟子を師匠がからかっているようにも受け取れていた。
『いつものゴールドの意地悪な気もするけれど』
「それは…否めないけどね。けど、意地悪だったら、そういう君もズルいじゃないか…」
『え?私が?』
「僕があの態度を取るようになってから、これ見よがしに、他の誰かの傍にいる事を多くしただろ?」
審判の言葉に自身の行動を振り返る。けれど、今朝ガールの背に隠れはしたものの、それ以外はリヴが誰かの元へ行ったのではなく、他の住民たちが二人の関係を心配してリヴの元へと着ていたのだった。
「最早、僕の考えなんてお見通しで、試されてるのかと思ったよ…」
口を尖らせて拗ねる審判だったけれど、当然リヴにそんなつもりは全然なかった。けれど、敢えて真実は伝えずに、少し気になった質問を先にぶつけてみる。
『…それで、結果的に、距離を置いてみてどうだった?』
「それはリヴのお見通しの通り、時間の無駄だったよ。…やっぱり、リヴと距離を置くのは無理だった」
降参と言わんばかりに、盛大なため息と共に首を振る。そして、頬をそっと撫でる審判の手に促されてリヴが顔を見上げれば、目が合ったというだけで、どこか安心したように笑う審判に、思わずぽつりと、リヴは先に答えなかった自分の真実を零した
『私は…無駄だとは思わなかったよ』
「…どうして?僕のいない時間がそんなに有意義だった?」
作戦が上手くいかなかったからいじけているのか、それとも、自分とは違う感想を持った事が嫌だったのか、わざわざ捻くれた聞き返しをする審判に、リヴは苦笑を零しつつも、頬に添えられた手に自分の手を重ねた
『とっても、静かだった』
「ははっ、だろうね」
『それでいて…何もなかった』
「何も?…いつも通りだったってこと?」
『そう。審判の合う前の…、あの時の、何もない日常に戻った気分だった』
正確には、その時は他の住民にすら関わりを持とうとしなかったから、もっと静かではあったけれども、それでも、審判が傍に居ないという事が一番大きかった
『前に言ったでしょ?貴方がいないのは、耐えきれないって』
この手がもう触れることが無くなったら、想像するだけでも痛かった心臓はどうなってしまうのか。精神力によって成り立つこのホテルで、自分という存在がどうなってしまうのか。そこまで考えたけれど、答えを見出す前に、強く、いつのまにか審判に握られた手が、今へと意識を引っ張る。
「…訂正。無駄じゃない。もうリヴにそんな顔させたくないって思えたからね」
そんな顔がどんな顔を指しているのかは分からなかったが、正面から自分の顔を見ている審判は、真剣に「ごめん」と謝ってくれていた
「君が僕を嫌わないままでいてくれるなら、もう…格好悪くても、そのまま僕のままでいるよ」
『…でも、表面上、審判は結構いつも通りに見えてたけど?』
「本当に?…だとしたら、僕の訓練もなかなか捨てたもんじゃないね」
少しだけ得意げに笑う審判に、つられてリヴも笑う。いつも通りの雰囲気に、さっきまでの痛みや緊張なんてものは欠片もない。
「ねぇ、だったらさ…日ごろ頑張ってる僕は、ご褒美を貰っていい?」
優しく問いかけるが、その時には既に空いていた手で、頬にかかっていた髪を退かしていて、くすぐったさと、覗き込むように見つめる審判の目に耐えきれず、キュッと目を瞑って待てば、程無くしてやんわりと、審判は唇を重ねた。
恋人になって、幾度となくしてきたことだけれど、未だに不慣れで、それでいてドキドキしたまま閉じていた目を開けば、そこには何故か、目を丸くしてキョトンとした審判の顔が合ったのは、初めての事だった。
「今日、誰の血も飲んでないんだね。」
『……そういえば、ずっと気になっちゃってて、飲めなかったや』
だから尚更、拍車にかけてナーバスになっていたのかもしれない。そして自覚した途端、尚更枯渇していた喉が、唾液さえも欲して、こくりとリヴの喉が鳴った。
『ねぇ、審判…貴方の血が、欲しいの。ちょうだい?』
「…君、僕が君のおねだりに弱いこと知ってるだろ?」
困ったように笑いつつも、少しだけ首を横に傾げて見せる審判小僧に、リヴは微笑みながら審判の首に腕をまわした。けれど、すぐに噛みつく事はなく、そのままぎゅっと、暫く審判に抱きつくだけだった