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16

「はっ、はっ……!」

 公園を抜けだした瞬間、一瞬だけ薺が見る世界が揺らいだが形振り構わず走り出す。しかし走れど走れど、見慣れた住宅街の景色が何度もループして嫌な予感が身体を蝕んでいく。後ろからは触れてはいけない、見てはいけない、と脳が警報を鳴らすほど危険なものが迫りきているのが背中からでも感じられる。もう何分走っているのか分からない、肺から吐き出される呼吸は底を尽きはじめ、心臓が痛い。呼吸も徐々に乱れだし喉の奥から血の味がしてくる、一心不乱に動かしている足は感覚が無い。腕も振ることができない。顔から伝っていく冷や汗と別の汗で身体が熱いのに、冷たい。

 なんでにげるの。
 あなたがいけないんだよ。
 ぜんぶぜんぶ、あなたのせいでわたしはくるしい。
 ぜったいにわたさない。

「っ、」

 暗くおぞましい、呻き声のような声の中で響く友人だった人の声。既に自我を失っているのだろう、でなきゃこんなに追いかけてくるはずがない。血が滲むほど唇を噛み締め、溢れそうな涙をこらえながら何度も何度も同じ景色の中を走り続ける。
 しかし身体はとうの限界を超えていた。はっ、と息を吐き出した瞬間、糸が切れたように足は動かなくなり、身体を支える芯は頭からするりと抜けだしてしまった。

「うっ!」

 受け身を取る気力すらないまま薺の身体は糸が切れた操り人形のようにぐらりと傾いてそのまま全体を叩き付けるように倒れた。襲い掛かる痛みと疲労で顔を歪めながらも必死に前に手を伸ばして逃げようとする。

 つかまえ、た
 やっと、やっとはなれてくれる。
 きらいだった なんどいってもはなれてくれない
 しね、しんで、しんでください

「ひ、ぁっ……! うっ、うぅっ……!」

 地面を掴んで、ずりばいでゆっくりと進もうとするが力が出ない。そしてゆるゆると嫌な気配が足元、臀部、腰、背中とベールのように包まれていく感覚で揺らめいて、ついに彼女の大きな瞳から涙が零れ出た。涙と唾液、鼻水でぐちゃぐちゃになるのすら厭わずに必死で足掻く。でなければ、このおぞましい化け物に殺されるのだ。

「瀬尾さんっ……!」

 見たら死ぬ。なぜだかその言葉が頭の中に浮かび上がり彼女はそれを見ないように、けれど言葉で訴えかけるようにかつて人間だった彼女の名前を呼んだ。
 背中越しから、一瞬だけソレが怯んだような感覚を感じ取りもう一度呼ぶ。

「瀬尾さん! 戻ってきて、」

 どうしようもなく怖くて、地面を掴んで、目を強く瞑り必死に叫んだ。もしかしたら、奇跡が起こるかも知れない。
 限りなく彼女はおぞましいものに近いけれど、人間の片鱗があるのだろう。実際に怯んだのが証拠だと言い聞かせる。届け届け届け、嗚咽交じりに悲痛な叫びの中、出してはいけない名前を咆哮する。

「霧谷が、瀬尾さん、をまって」

 刹那、薺はとんだ禁句を出したことに気が付いた。途端に目の前が真っ暗に弾け体温が無くなった。

「あ……」

 軸宍雫七 而耳自蒔・ゥハクサ?ス、ア・ム・ソ。シ・
オ。ヌス。ヲクヲオ
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 動きを失ったソレは既に理性を無くし、かろうじて聞こえていた声は、もう聞こえなくなってしまったのだ。頭の中に直接響く不快感しか与えないだみ声のような、ノイズのような雑音に頭が揺らぐ。

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「んぐ……!」

 もはや言葉すら失ってしまった憎悪を具現化したような嫌なものが、薺の口に纏わりついた。生ごみような悪臭と、じっとりとしてねばねばした気持ちの悪いものが身体を絡め取る。止めどなく溢れ出る涙と、口と鼻から必死に呼吸をするもすぐに悪臭を捉え胃から何かがこみ上げてくる。汗でびっしょりだった身体からまた別の汗が吹き出し、疲れと恐怖で身体が震え出て、変に力が緩まった下腹部がじわじわと生ぬるくなった。

「っん、゛!」

 羞恥心すら捨てて必死で生きるべく逃げようともがくも、人を捨てたソレは見逃してくれない。足掻いて足掻いて、必死に生きようと身体を動かすたびに身体を強く縛り付けている。
 口元の一部に絡みついていたものが自身を離れ宙を数回うろつく、薺にはその姿が見えないが確実にこの身を壊そうとするのは目に見えていたのだ。
 刹那、悲痛な叫び声が響いた。

「ん゛、ん゛ー!」

 ソレとも似て異なる金切り声が蠢くモノの隙間から零れ出ていく。
左側のお腹、胴体に鋭い痛みが身を犯す。痛みで視界が揺らぐ中首を頑張って捻らせて視線を持ってくと、黒いものを纏ったソレが自分の身体を貫いていた。目を見開いて硬直するも痛みは引いてはくれず、刺された部位を真っ赤な鮮血が鮮やかに花を咲かせていっているようだ。血と汗と泥、身体はぐちゃぐちゃで、顔も色を失っていくのが分かった。
 真上で何かが音を出すのを耳に捉えながら、薺は力を無くしぱたりと地面に頬を乗せる。

「(お腹、痛い……苦しい、……きもち、わるい……)」

 意識が混濁して白くなる。口元の悪臭はさらに強くなり、助けを呼ぶ声すら出ずに途切れ途切れにひゅっ、と息が出るだけだ。振り切る力さえ残らずに、腹部からどんどん血が出てきて、頭がくらくらする。

「(もう、だめなのかな……)」

 多分、この化け物は私を殺すだろう。いとも簡単に、呆気なく心臓を刺して。いいや、もしかしたら至る所を滅多刺しにして痛みを与えながら嬲り殺していくか、どちらにしろもう終わりだ。そんな思想に耽りながら、迫りくる眠気に抗えない、

「(霧谷……キリシマさん……)」

 目を瞑ってはいけない。そう思っても、も、う、


 確かな確信はなかった。けれど、自信があった。嫌な気配が身体を纏い公園を曲がり、空間を捻じ曲げた瞬間にどす黒いものが身体を包み込み、とうとう姿を現すのだ。
 おぞましく聡明で、人間に取り憑いて一人の人間を確実に自分たちと同じ世界に導こうとしているものが。

「っ……見つけた」

 黒い靄の後姿、おぞましい姿に一瞬だけ背筋が凍る。しかしそんな事をしている暇は無い。自身の愛刀カナキリを鞘から抜け出し構えを取った瞬間、蠢く怪異の隙間から何かが見えた。足のようだ、ぞわぞわしたものが身体中から駆け抜けて冷や汗が噴き出しそうに、見るのが躊躇われる。けれど斬島は一歩前へ歩み、その姿を目に捉えた。

「-------!」

 刹那、斬島の奥に眠っていた怒りの箍外れ目の前が真っ赤に染まる。人間にあまり興味はないし情すらない。けれど、あの人間は自分に興味を持っていた、だから気紛れであろうと少しだけ向かおうと思えた。その人間が、身体を貫かれ、赤に染まる。
 なにかを言いだすために開き掛けた口は、生憎ながら都合のいい言葉なんて出ずにそのやりきれない思いは踏み込みで勢いのついた刀に刻む。

「薺!」

 カナキリが確かにソレを捉えた瞬間、斬島の口から吐きでた言葉。
怒りでも戸惑いでも悲しみでもなんでもない、たった一人の人間の名前だった。


≪ ≫

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