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儚い祈りを捧げる


「いよいよ、明日だね」
「そうですね。……ドキドキが治まらないです」

 真っ白い羽毛の布団に身体を沈み込ませる小さな身体からは、緊張の色が現れ少しだけ強張っているのが木舌の目にすんなり入り込んだ。真っ白な首元から奏でる軽やかな声色は常日頃魑魅魍魎の断末魔や金切り声で犯されていた彼の耳を癒すには十分すぎて、思わずその喉元に歯を立てたくなる。しかしそんなことを実際に起こすつもりは毛頭ない、柔らかな風がふわりとカーテンをなびかせ、彼女の真っ黒な髪を宙へと舞い上がらせた。
 
「きっと、視えるようになるよ。眩しすぎて倒れちゃうかも?」
「色付いた世界はとても綺麗なんでしょうね。……木舌さんの顔を見るのも、楽しみです」

 肌に溶け込むかのように揃い麻布で巻かれた目元に、木舌はゆっくりと目をやりそのまま翡翠を伏せた。彼女の目は、綺麗な翡翠も、周りを取り囲む白い世界も、吸い込まれそうなほど広く澄み渡る青空も見ることが出来ない。
 映るのは輪郭を無くし形も無い黒く淀んだ世界、真っ黒な世界に彼女は一人で佇んでいる。かわいそうに、翡翠の目を細め、木舌はベッドに体躯を沈み込ませる名前を見つめた。
 人の心を持っていない自分にも、こうして誰かを想う気持ちが存在していることに驚きが隠せないが、嫌ではなくどこか心地よい安心感が襲う。思わず腰を浮かせて、無意識に手は彼女の頬に触れた。

「……木舌さん?」
「ん? あ、ごめんね。吃驚したよね」
「ちょっとだけですけど……、気にしないでください」

 口元が柔らかく曲線を描き、頬に触れた手の上から自分よりも幾分小さく暖かい手が重なる。
穢れのない柔らかな笑顔、無垢で、清廉で、木舌は自分の本当の姿を言っていない分謎の罪悪感に苛まれ心が少しだけ痛くなった。彼女と出会ってどのくらいの月日が経ったのだろうか、初めてであった時と比べると彼女は身体的にも精神的にもだいぶ変化している。自分は、死という概念も老いという定義も何もない、ずっと数百年前からこの姿だ。
 光を映さない眼窩は、今まで己自身を映したことも移り変わる景色を見たこともないし知ったこともないだろう。自分がどれだけ成長し、両親が老い、昔あったものが無かった、なかった物が現れたり、日常的に他の奴らが知っている当たり前が彼女は、全く知らないのだ。

「冷たいのですね……」
「え?」
「冷たい手。けど、優しい……」
「……」
「手術が終わって目覚めたとき、真っ先に木舌さんに会いたいです」

 屈託のない笑顔に、木舌の心臓は、氷で出来た手で掴まれたようにひやりと冷たくなり、痛い。
初めて見たときも、確かこんな笑顔を向けていた。いつかは忘れたが初めて出会ったとき、彼女はこの暗く静寂が溶け込む世界で一人ぽつんと冷たいベッドの上に身を植え付けていたのだ、なんで彼女と接触を図ったのかは分からない。けれども、自分とは違う茶色の瞳は光を宿しておらず絶望の色がにじみ出ていた、光の無い世界で生きてきた彼女に希望の色なんて無かった。
 
「そこにいるのはだあれ?」

 見えていないはずなのに、彼女に木舌の姿が見えていた。否、実際は色や輪郭を映しているわけではないし木舌そのものを網膜に焼き付けたわけではない。彼女は気配だけで、木舌を認識したのだ。馴染んだ世界で肌に触れる空気の中に現れた異質なモノ、不思議な空気が頬を掠めいつもとは違う膜の感覚と匂い、部屋に訪れる看護師や医師とは違う別のもの。
 木舌は驚きで目を見開いたが、すぐに平生を取戻し、笑みを浮かべる。

「こんにちは、お嬢さん」
「こんにちは。迷子ですか?」
「君と友達になりたい迷子だよ」
「お友達……、素敵な響きですね」

 遠くから眺めていた時とは違う表情を見せた彼女に、木舌の心臓は大きく高鳴った。色を失ってはずの彼女の目は、少しだけ輝いたのだ。時間を縫っては、木舌は現世に降りる時間を見つけたは彼女に会いに行った。

 出会い、酌み交わされる時間の中で分かったさまざまなこと、彼女は生まれたときからずっと暗闇の中で暮らしていたことも、両親が必死になって暗闇の世界から抜け出す方法を考えていてくれたこと。自分の周りにはとても優しい人たちが居て、こんな風になってしまったけれど幸せなことも。木舌は自らが人ではないことは言わなかった、目が見えないからこの異質な姿を説明する必要もないし看護師達が来る時間帯も把握していたからその隙を狙って彼女の前から消えていたことも。たぶん彼女は看護師や両親に自分の存在を伝えているだろう、挨拶をしたいと両親が言っていた、と言われても木舌はずっとのらりくらりとかわし続けている。

「明日、絶対に来てくださいね」
「……うん」

 明日、木舌は彼女の元から居なくなる。別れの時が近づいたのだ。光を手にした名前はきっと彼の姿を認識出来なくなるだろう、元は人ならざるもの、普通の人には映らない存在だ。彼女と木舌が接触出来るのも、きっと目が見えない彼女だからこそのものだろう。それ以外にもあまりに長く彼女と接していると自らが放つ霊気に充てられ彼女の体力を徐々に削り取ってしまう、あまりに長く居過ぎてもダメだ。
 きっともう、二度と彼女の前に現れることなんて無いだろう。このままずるずると彼女の傍に居続けたら謎の情に絆されてしまう、少なからず自分でもそう感じ取っているからこそ、そろそろ手を引く時。

「ようやくこの手の持ち主に会うことが出来るのですね」
「ふふ、なにそれ」
「ずっとずっと、見たかったんです。冷たいのに暖かくて、触れると安心する手。もちろん貴方の声も、貴方と居ると感じられる空気も大好きです」
「……ん、ね」
「木舌さん?」
「っ、ごめんね。なんでもないよ」

 心臓が、壊れそうなくらい痛い。ずきりずきりと音を立てながら軋み、押し潰れさそうなくらいの圧迫感が襲う。混じり気のない笑顔で叶うことのない言葉を吐き出されて口から零れ出た言葉を咄嗟に噛み砕いた。「ごめん」なにに対してなのかなんて知らない。人間なんて、それほどまで感情を入れるものでもないしさほど興味なんて無かった。彼女のことも、人間にしては珍しい瞳の色を持っていたから不思議だと思っていたのに、いつの間にか不思議という感情では片付けられない別の感情が居付いた。

「治るよ、きっと、優しい世界が待ってる」
「……木舌さん?」
「そりゃあ、良いこともあれば悪いこともあるけれど、大丈夫だ。君を取り巻く世界は、穢れもあるけど綺麗で、眩いほど輝く優しい世界なんだ」

 願わくば、その笑顔を君の隣で見ていたかったけれども、叶うことなんて無い。
鼻の奥がちくりと痛み揺らいだ景色と共に流れるそれは、彼女に見えるわけがないのに、唇をきつく噛み締めて木舌は輪郭を伝う水滴が、彼のカーキー色のズボンにシミを作っていく。

「きの、したさん」
「頑張れ。……頑張るんだ」
「どうして、泣いているんですか……」

 見えないはずなのに、感じ取っている。眉を下げこちらに身を乗り出した名前の小さな手が涙で濡れる木舌の頬に、壊れ物に触れるように添えられた。

「名前さん……」
「あなたが泣いていたら、私も悲しいです」

 数えきれない望みの中、明日とこの瞬間、二つの望みは叶えられない。人は儚い、彼女の夢も叶うはずなのに、全部は叶うことが決して無いのだから。
けど、木舌の夢は叶うだろう、どこか一抹の寂しさを残したまま。
 どうか、これから彼女に起こる未来は明るいものでありますように。頬から流れる涙が彼女の手を濡らしていきながらも、木舌は必死に唇を噛み締め神に祈りを捧げた。

「(ごめんね)」

 声にならない言葉と共に、一人の男の祈りは静寂した空気と混ざり緩やかに溶けていく。
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