あの夜抱き締めた身体は、見た目よりもずっとか細かった。
あの夜触れた唇は、驚くほどに柔らかかった。
俺は、あの感触を、忘れることが出来なかった。



「トウヤくん、いつ発つの?」

淡いピンク色の制服を着たジョーイさんが朝食を持って自分の座る席にトレーごと置いた。
今日の朝食はトーストにサラダ、フルーツの盛り合わせだ。正直食べる気なんてしないが、せっかく運んできてくれたジョーイさんの手前そういうわけにもいかず、小さく礼を述べてからトーストに手を伸ばした。
先程のジョーイさんの言葉には悪気なんて一つも感じられない。寧ろ心配をかけさせてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
俺はあの夜から一週間、ずっとここグレン島のポケモンセンターに居座っている。その間、一歩も外に出ず、用意された個室と共同食堂ばかりを往復しているんだ。そんな言葉を投げかけられてしまっても仕方ない。

「…そろそろ出ようかなって、思ってます」
「…そう。ところでトウヤくん、次はどこの街にいくの?」
「……いや、まだ」
「カントー地方、まだ全部回ってないんでしょう?いいところばかりよ。そうね、ここからだとマサラタウンが一番近いかしら。少し遠くなるけどセキチクシティも行けるわよ」
「マサラタウン?」
「マサラタウンはジムも何もないんだけどね、そこがいいのよ。あの世界的に有名なオーキド博士の研究所もあるし。あ、そうそう、カントーチャンピオンのレッドくんの家もあるの。だからよく、マサラは真っ白、始まりの町って言われててね…」
「レッドさんって、あの伝説のチャンピオン?」
「あら、トウヤくん知ってるの?」
「うん。ちょっと耳にしたことがあって…」
「ならマサラタウン、行ってみたらどうかしら。空気が澄んでてとってもいいところよ」
「…考えてみます」

暫し考えてからジョーイさんににこりと笑いかけると、彼女も安心したのかにこりと笑みを浮かべて再び勤務へ戻るべく食堂から姿を消した。
ここに来るまでに聞いたことがある。レッドさんというチャンピオンは、幼いながら圧倒的な強さを持ち、ロケット団という悪の組織を一人で壊滅させたあと四天王に乗り込んで見るも劣らぬ速さでチャンピオンの座に上り詰めたと。しかし、チャンピオンにはならず、そのまま行方を晦まし今となっては消息不明。そんな伝説のチャンピオンだ。
カントーの人はみんな、彼のことを伝説のヒーローと呼んでいた。彼の活躍はそれほどまでにすごいものであったのだろう。
そして、そんな彼はあの「グリーン」の幼馴染だと聞いた。事実、「グリーン」はレッドさんを探していて、それでいて俺をレッドさんと見間違えたのだから。
正直、今思い出してもいい気がしない。俺はトウヤだ。レッドさんじゃない。「レッド!」なんて言って高いトーンで声を発したのに、俺が振り返った瞬間表情を曇らせ、小さく消えそうな声を出すようになったのだから。
がっかり、なんて言葉がぴったりなあの表情が目に、脳裏に焼きついて離れない。
自分は全く悪いことをしていないのに、悪いことをしてしまったような、そんな理不尽な気分だ。

「……行ってみようかな」

この時瞬間的に思い立ってしまった軽率な行為が、今後の運命を変えることになるだなんて思っていなかったんだ。
理不尽なあの感情が、自分自身を理不尽の塊にしてしまうなんて。そしてそんな俺が自分の歯車を大きく狂わせてしまうなんて。



グレン島からマサラタウンまでの道のりは思っていたほど遠くなかった。
海の上を飛んでいたからであろうか。真っ白なレシラムの背中に掴まりながら見る真っ青な海と真っ青な空とのコントラストがとても綺麗で、それでいて目の先に見える緑色の木々もすごく綺麗で。
カントー地方は案外緑の多い綺麗なところだなって思った。

マサラタウンにレシラムを下ろすとすぐさま彼をモンスターボールの中に戻した。
イッシュ地方でNと一緒に掴まえたこのポケモンは、ただでさえイッシュ地方でも目立っていたというのに、他の地方へ連れてきたら目立ちすぎてしまう。
それでも彼をパーティーから外さず、片身離さず腰のモンスターボールにつけているのは、彼を連れていればアイツに会えるのではないかという淡い期待からだった。
元は一匹のポケモンだったというレシラムとゼクロム。その片割れを持つアイツに、ゼクロムに、引き合わせてくれるのは、レシラムしかいないと信じている。
理想を追い求め、どこかへ旅立ってしまったアイツに、俺はレシラムと一緒に真実を教えてやらなきゃいけない。
その真実は決して甘いものではない。しかし、この真実を知り、それを踏まえた理想をアイツには追って欲しい。そう、彼の理想はあまりにも現実離れしていた。

「…あ…」

そう考えていた時、後ろから地面の土を踏みしめ後ずさりする音と共に小さい声が漏れた。
反射的にぱっと後ろを振り向くと、そこには先程まで脳内を占領するほどまでに考えを埋め尽くされていたアイツではなく、この前の彼がいた。
彼は俺と目が合うと、頬を赤らめ口を小さくぱくぱくと動かしながら再び後ずさりする。
ざらざらとした土を引きずる音がやけに大きく聞こえた。

マサラタウンに来る時、なんとなく、こんな予感もしていた。
いや、違う。あの夜、逃げるようにして去っていった彼の後ろ姿を見送り、ポケモンセンターに入ってから一週間、ずっとこんなことを考えていたのだ。
自分と彼はまた必ず会う、と。

「…な、なんで…」

困惑を浮かべた表情の中、ぱくぱくと空回りしながら動く唇からようやく発せられた言葉はとても弱々しかった。
尚もまた後ずさりをする彼。その距離を縮めるべく、俺が一歩脚を前に出せば、彼は踵を返して走り去った。
どんどん遠くなる彼の姿に、アイツの後ろ姿が重なる。そうだ、アイツはいつも俺を置いて先に先にいってしまっていた。先に行って、時に俺を待ち伏せて。でももうアイツが俺を待つことはない。
そう思ったと同時に無意識に俺の脚は彼の後ろ姿を追っていた。
揺れる茶色い髪、アイツよりも少しだけ低い身長はアイツのシルエットとはまるで異なるものだ。分かっている、頭では分かっているけど、走り出した脚は止まらない。まるで坂道で転がってしまったリンゴを掴まえるまで止まることを知らない少年少女のようだ。
がさがさと背丈の高い草の道を掻き分けて彼を追いかける。彼にとっては幼い頃から住んでいて慣れ親しんだこの道を走るのはお手の物だろうが、初めての土地である俺にとっては獣道でしかないこの草むらはとても危険で、何度も脚を取られ躓きそうになった。
それでも後ろに引き返そうとしないのは、ただ単に彼にアイツを重ねているからなのであろうか。

「待ってよ!」
「な、なんでくんだよ!」
「話聞い…」
「触んなバカ!」

ようやく彼の細い腕を掴んだ時にはお互い息が絶え絶えになっていた。
掴んだ腕を離せ離せと声を張り上げて抵抗する彼の腕を握る手に力を込める。そのまま残った力の限りぐっと引き寄せれば彼は案外簡単にこちらへ引き寄せられた。
彼の両肩を痛いくらいに掴んで真っ直ぐ見つめれば絶え絶えになっていた息を小さく吸い込んで息を止めたのが分かる。いや、もしかしたら緊張や困惑のあまり無意識に止めてしまったのかもしれない。
真っ直ぐ見つめれば、あの夜薄明かりで見えづらかった顔が日の光に照らされてよく見えた。彼の顔は本当に整っていると思う。シャープな顔のライン、筋の通った鼻、形のいい薄い唇、長い睫毛、そして優しい緑色の瞳。
困惑に満ちた緑色の瞳はやはり綺麗で、そのまま吸い込まれてしまいそうだった。
俺が彼の顔をまじまじと舐めるように見つめている最中も彼の息は止まったままだったので、彼に助け舟を出してやる。

「…名前は?」
「………グリーン、だけど」
「俺はトウヤ。イッシュ地方から来たんだ」
「…へぇ…」

まるで溺れかけて息が出来なかった水中から出た哺乳類動物のように短い息を繰り返し、酸素を懸命に体内に吸い込みながら彼は答えた。
けれど痛いほどに掴んだ肩のせいでまだ緊張をしているのか視線が泳いでしまって落ちつかない。
優しい緑色の瞳は俺を捕らえることは、一回もなかった。
だから、少しだけ意地悪をした。その瞳に俺を映して欲しくて、俺だけを見て欲しくて。

「俺さ、アンタに興味があるんだ」

本当に、俺はずるい人間だと思う。
大きく見開かれた緑色の瞳は、今まで見てきたどんな石よりもジュエルよりも綺麗で、その中にやっと映し出された自分の姿までも綺麗に見える錯覚が起こってしまうほどであった。




俺を突き放して、忘れさせて
(今ならまだ間に合うから早く、)
(この胸を思いっきり押し返して拒絶して)





俺を映したその瞳は、受諾も拒絶もせずに静かに閉じられた。
そんな瞼に優しく口付けた俺は、本当に、とんだ食わせ物なのかもしれない。




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