マサラタウンに帰ってきたのはいつぶりのことだっただろうか。
しばらく帰っていない気もするし、ついこの間帰った気もする。
しかし、そんなことを思っていたのは自分だけだったようで、周りの人達は急に消息を絶った僕を心配して、相当探し回ったらしい。
幼馴染であるグリーンの探し回った人々のうちの一人だと人から聞いた。いや、彼は周りの人々よりも懸命に、必死に僕を探し、追い求めてくれたみたいだ。
その事実を知ると、申し訳ない気持ちも勿論あるが、それよりも嬉しさが勝り口元を微かににたりと上げてしまっている僕に気がついた。
僕のその表情は、目の前にいる人物には気が付かなかったようなので、慌てて弛んだ口元を引き締める。案の定、再び表情を無くした僕にその人は「相変わらず無口ね」などと言葉を漏らした。
自分がなぜあのような表情を浮かべたのか、そんなこと、考えなくとも分かっていた。
しかし、意図して考えず、分からないふりを僕はした。こうでもしないと、自分の腹の中に居座った真っ黒く渦巻くものに身体全身が犯され、呑み込まれてしまいそうだったからだ。
こんな僕の汚いところを君が見たらなんていうだろう。優しい君のことだから、眉をハの字にして悲しそうな、まるで自分が傷ついたような表情をするだろうか。それとも汚れてしまった僕を軽蔑して突き放すだろうか。きっと君なら前者の行動をとるだろう。
「ところでグリーンのことなんだけど、」
突然聞こえた単語にぴくりと身体が反応する。その振動は、手を添えていたオレンジジュースの入ったグラスが僅かに吸い取ったようで、中に入っている氷がカランと音を立ててずれ落ちた。
カランと響いた音のせいで、前に座る人物は少しだけ目を丸くして僕を見る。いつもよりも大きな青い瞳に見つめられなんだか罰が悪くなり、目を伏せると彼女がクスリと小さく笑い声を漏らした。
「訂正するわ。相変わらずレッドは素直ね」
クスクスクス。笑いながら喋る彼女は心底楽しそうだ。
なんだかバカにされている気もしなくはないが、それに嫌悪感を感じないのはきっと彼女の明るい性格故のものだろう。
今更否定することでもないので、オレンジジュースの入ったグラスから伸びるストローの端を指で摘みながらくるくると氷をかき回す。「…で、なに?」と搾り出した声は思ったよりも小さかった。
「最近ね、妙に上の空なのよ。トレーニングにもいまいち身が入ってないってヤスタカから聞くしね。トキワのジムに挑戦者は早々こないだろうけど、このままじゃうっかり、なんてこともあるんじゃないかなって思ってね」
一応同じジムリーダーとして心配してんのよ、なんて言葉を付け加えてカスミは注文したチースケーキの最後の一口を口に運んだ。
僕はというと、半分も飲んでいないオレンジジュースの中に浮かぶ氷をストローで遊ぶの夢中だ。
今日はグリーンがいないから、氷で遊んだせいで溶けてしまて先程よりも水嵩が増し濃度の薄くなったオレンジジュースを残しても怒ってくれる人がいない。
「ねぇ、聞いてる?」
溜息混じりに聞いてくる彼女の高い声は耳に心地よく入ってくる。
しかし、目の前にいる彼女のことをちらりと見やりながら僕は別のことを考えているということに気が付いたのか、カスミは手を上げ店員にホットミルクティーを再度注文し始めた。
グリーンが最近どこか上の空だということは僕自身も気付いていた。
時々ふと遠くをぼーっと見つめているのだ。それはそれはもう、こちらが見るに絶えないくらい切ない瞳で。
グリーンがどうしてこんな表情をするのか、僕にはさっぱり分からなかった。
ねぇ、何考えているの?もしかして、誰かのことを想っているの?グリーンの頭を占めているのは誰なの?
次々と浮かび上がる疑問は喉まで出かかったが、口から出されることもなく、僕の腹の中に再びしまわれた。
黒く渦巻くそれに巻き込まれた疑問符は、どろどろに溶けて、汚い液体になってしまたみたいだ。
「グリーンのあんな顔、アンタがいなくなった時以来、初めて見たわよ」
小さく、本当に小さく彼女の口から呟かれた言葉もまた、僕の汚いものに呑み込まれていったのは、言うまでもない。
カスミと別れてハナダの喫茶店を出た後、徐に僕はトキワシティへ向かった。
あんな話を聞かされた後だ、グリーンのことが気になるのは当然なわけで。
リザードンをトキワジムの近くに下ろして背中を撫でてやりモンスターボールへ戻す。少しばかり息が上がり身体が暑いのは、リザードンの尻尾に灯る炎のせいだと思いたい。
ジムの表口から顔を出せば、トキワジムの忠犬であるエリートトレーナーのヤスタカがキャンキャンと吠えながら勝負を挑んでくるに違いない。そう考えた僕は、あの日のようにジムの裏口から入ることにした。
人通りのないジムの裏口へ向かうと、裏口の横に設置されたベンチに見慣れた姿があった。
あぁ、まただ。なんでそんな瞳で空を見上げているの?僕の大好きな綺麗な緑色の瞳は曇り、長い睫毛に半分ほど覆い隠されている。
顎を持ち上げ空を仰いでいるからこそその瞳は開いているが、彼が前を向いた瞬間、きっとその緑色は消えてしまうであろう。
なんで、どうして、君はそんな顔をするの?僕はもう、帰ってきたよ。それなのに、まだそんな顔をするの?
じゃり、とあの日と同じように砂を踏む音を立てた。今度はわざとだ。でも、彼は空を見上げたままこちらを向こうとはしない。
じゃり。再び音を立てて近付いた。彼の横顔にかかった僕の影、それに気が付いて彼はようやく僕を見上げた。
「よぉ、レッドじゃねーか。どうした?」
へらりと笑うグリーン。その顔にはさっきまでの寂しそうな悲しそうな、それでいて切なげな表情など微塵もない。
立ったまま微動だにしない僕に見かねたのか、グリーンがベンチの隅に移動して空いた隣の席をポンポンと軽く叩いた。
しかし、僕の足はグリーンの隣ではなく、グリーンの目の前に赴いた。
グリーンの瞳が少し驚いたように開かれる。それはさっきまで話していたカスミの瞳と同じくらい大きく可愛らしい瞳であった。
「……ねぇ、グリーン、何考えてたの?」
少し声のトーンが低すぎた、と自分でも思う。
怒っているようなその声は、グリーンにもそのように捉えられてしまい眉を下げ、困ったような顔をされた。
「…何って…色々?」
一瞬、後ろめたそうに目を逸らしてからグリーンは答えた。
その仕草に腹の底からふつふつと苛立つ気持ちが込み上げてくるのが分かってしまって、僅かに自分自身が怖くなってしまったが、今はそれどころじゃない。この気持ちを押さえ込むのに精一杯だ。
グリーンがベンチに座っているせいで、自然と僕が彼を見下すような瞳になる。
大きく見開かれた緑色の瞳に映った僕は、驚くほど冷たい表情をしていた。
「…ねぇ、」
駄目だ駄目だ駄目だ。ここで止めなくてはいけない。この先を言ってはいけない。彼のためにも、そして自分のためにも。
そんなことは分かっているのに、僕の口はゆっくりと開く。
「相変わらず無口ね」といったカスミに接したように、他の人たちに接するように、僕は今こそ無口にならなければならない。
言葉を呑み込んで、人に気持ちを悟られないように。何年もの間、そうしてきたように。
「…好きな人、できたの?」
一生懸命呑み込もうとした言葉は意図も意図も簡単に口から零れ落ちるように出てきてしまった。
さっきまでの低いトーンとは別に、いつも通り、いや、いつもよりクリアな声色で問いただした言葉は、彼には重すぎたであろう。
きみのことばはぜんぶうそ
(だから今否定している)
(この言葉もきっと、)
顔を赤らめ慌てて懸命に違うと否定の言葉を並べるグリーンを見て、今はまだ、彼の言葉を信じてみたいと自分に言い聞かせる。
あぁ、残念ながら僕も立派な嘘吐きだったみたいだ。