人があの状況を見ていたとしたら、俺はただ黙って抵抗もせず好き勝手やられていた男、と見做されるだろう。
彼が人違いをしているのは分かっていた。
いや、あれは人違いというのだろうか。むしろ、俺に誰かを重ねていた、というほうが正しいのかもしれない。どっちにせよ、人違いには違いないのだが。

長いこと口付けを受けた、気がした。
もしかしたら、あの時間はとても短く一瞬の出来事だったのかもしれない。でも自分では相当長い時間唇を重ねていた気がしたのだ。
その長い口付けときつい抱擁を受けた後、我に返った彼は慌てて俺から離れて「すみません」と小さく謝った。その時の表情はよく覚えていない。苦笑いしていたかもしれないし、もしかしたら悲しそうな顔をしていたかもしれない。しかし、その表情の記憶がないということは、混乱していた頭がうまく回っていなかったみたいだ。
実際、自分があれからどうやって帰ってきたか、という記憶がない。気が付いたら自分の部屋のベッドで蹲っていて、窓から朝日の光が緑のカーテン越しに控えめに差し込んでいたのだ。

昨日の彼は一体誰だったのだろうか。
自分とあまり変わらない身長、茶色で外に跳ねた髪、帽子を目深に被り、青色の服を着ていた。ズボンのポケットに手を突っ込みながら立つ姿はとてもバランスが良く、傍から見たらカッコイイと呼べるものであった。
毎週のようにグレン島へ通っている自分だが、あんな奴は初めて見た。腰にいくつかのモンスターボールがちらちらと見えたので新米のトレーナーか、とも思ったが、記憶の中の彼はとても綺麗で、掠り傷一つなかった。グレン島へ行くには海を渡らなくては行けない。新米トレーナーが無傷で行くのは至難の業である。
となると、ますます彼の素性が分からなくなってしまう。
しかし、過去に見たことのある、といってもそんなの彼しかいないのだが、それに似たあのオーラは只者ではないということは理解出来た。
アイツは何者だ、なんで俺に…、

「…って何そんなにアイツのこと考えてるんだ!俺は!」

首をブンブンと激しく振って考え事を吹き飛ばす。
人違いだったとはいえ、突然自分にあんな失礼極まりない行為をしてきた奴のことなんて忘れてしまえ。もうきっと二度と会うことのない相手だ。
自分の頬を軽く叩き、よし!と自分で気合を入れなおすとベッドから抜け出して、自分の溜息やもやもやとした考え事でどんよりとした空気が充満した部屋から出た。


昨夜俺が一言も喋らず部屋に籠もってしまったことを心配する姉ちゃんを適当な理由を作ってどうにか安心させた後家を出た。
少し離れた所にある赤い屋根の隣の家。自分の家と造りを逆にしただけのその家には今一人しか住んでいない。それなのに毎日毎日、その家を見てしまうのは何故だろうか。癖というものは恐ろしいものだ。
今日は早めにジムを閉めて、買い物でもして帰ろうか。心配をかけてしまった姉ちゃんと、隣に住む彼の母親のために花をプレゼントしてあげよう。きっと二人とも喜んでくれるはずだ。
そう思ってから、ピジョットの背中に乗りマサラタウンを飛び立った。




上空から見るトキワの森の木々はもう既に葉が散り始めて枝が剥き出しになっていた。
頬にあたるひんやりとした風は今日も冬がもう間近に迫っていることを知らせている。今年は寒波が押し寄せると天気予報で言っていたが、雪が降るだろうか。今年は今からこんなに寒いのだからきっと降るだろうな。
そんなことを考えながらトキワの森を越え、トキワシティに着く。寒い朝だということもあり、外にはほとんど人が出歩いていなかった。

適当にピジョットから飛び降りてモンスターボールへ戻して、ジムへ向かって歩き出す。
最近クローゼットの奥から出したマフラーに顔を埋めると、暖かさのせいか先程とは違うどこか安心したような溜息が出た。
白く吐き出された息は冷たい空気を含めて宙に浮かぶ。そして、ぼやっと消えていった。
そんな白い息を見て、どこか喪失感を覚える。
あぁ、今年の冬もきっとアイツは、

背後でじゃり、という砂を踏む音がして慌てて我に返った。振り返る必要がなかったのは、ここがトキワジムの裏口だからだ。人の出入りがないジムの裏口へ来る奴なんて、自分か、ここのジムのトレーナーぐらいだった。しかし、この時間にジムトレーナーが来るなんて珍しい。うちのジムのトレーナーは根っからの真面目な秀才が多いので、いつも自分よりも遥か前にジムへ来て準備をしているのに。
そこで漸く後ろの人物が不審者ではないか、という考えが頭を過ぎった。腰にあるモンスターボールへ手を伸ばしながら恐る恐る背後の人物を見遣る。赤い靴が目に入った。

「…グリーン、」

低すぎず、でも決して高くはない透き通ったような声。その声は、記憶の中の先程のより少しだけ高いあの声と一致した。
赤い靴からゆっくりと視線を上げる。明るい色のデニムに、赤い服、黄色のリュックには最近はほとんど見かけることのなくなっていたバトルサーチャーが付けられている。

「…レッド…?」

トレードマークの赤い帽子、漆黒の黒い髪、そして綺麗な赤い瞳。見間違えるはずはない、彼だ、今度こそ彼なのだ。ずっと探していた5年近く音沙汰のなかった幼馴染。

「レッド、なのか?」

忘れるはずも、間違えるはずもなかったが、念のため確認をする。すると、目の前にいる彼は帽子の鍔を持って目深に被り直してコクリと小さく頷いた。
こんなに寒いにも関わらずしっとりと濡れた手をぎゅっと握り締めるともう何度目か分からない爪がめり込んだ為の鈍い痛みを感じる。相手の名前を呼んで以降一向に開こうとしない硬く閉ざされた唇をギリギリと噛み締める。今回は爪の痛いより唇の痛みで、心の痛みを緩和出来そうだ。
今まで何をしていたんだ、なんで連絡一つ寄越さないんだ、皆がどれだけ心配したと思ってるんだ、俺の気持ちはどうなるんだ、など言いたいことは山ほどあった。しかし、どうにもこうにも唇がいう事を利かない。怒りもぶつけたいのに、下できつく握り締められた拳もまたいう事を利きそうになかった。

「グリーン、あのね」

暫くの沈黙を破ったのはレッドのほうだった。
掠れた声で俺の名前を呼ぶ。この状況はデジャブとでもいうものか。閉まったはずの数年前の記憶が頭の奥で呼び起こされた。
比較的無口なレッドから話を切り出すときは、昔から決まってあまり良くない事が起こる時だった。
じいさんからポケモンを貰うことになった、旅に出ることになった、ロケット団を倒した、セキエイリーグに挑戦する、そして、

(グリーン、あのね、僕…)

レッドがいなくなったことに、自分が全くの無関係だ、といえば嘘になる。むしろ関係していたのだ、自分のせいでレッドはいなくなってしまったに違いない。
あれから必死に探した。ジョウトにまでいったのではないか、とジョウトの街を全て回った。でも探しきれなかった。
その相手が今目の前にいて、俺に話しかけようとしている。今度は何が、
ごくりと喉が鳴る。噛み締めた唇からじわりと鉄の味が咥内に広がった。

「………ただいま」

冷たい空気に凛と届いたその言葉と共に、ふわりと身体が包み込まれた。
この寒い中半袖だというのにレッドの身体がとても温かく感じたのは、なぜだろう。




何故だか無性に泣きたくなったのは
(やっと会えた喜びのせいか、)
(それとももしかして、)





漸く脳内の信号を読み込み動き出した唇を開き、「おかえり」と一言、言葉を搾り出した。
嬉しそうに微笑むレッドを見つめながら、昨日の奴も本当に探していた相手に会えただろうか、なんて考えてた俺には、その時のレッドの本当の表情を読み取る余裕なんてなかった。




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