グリーンさんがジムに行っている間、暇だったから外に出て散歩をした。
途中、本屋があったので、徐に立ち寄った。そこで、『人間的感情論』という本が目に入ったから、なんとなく購入した。
別に自分が人の感情に疎いわけではない。寧ろ敏感なほうだ。でも、それでもそのような本を買ったのは、敏感だと自負していた自分に僅かに疑問と不安を抱いたからであった。
先程、暇だったから外へ出たといったが、本当は、一人で部屋にいるのが嫌だったからかもしれない。
グリーンさんがいない室内は、昼間だというのに薄暗く、そして胸がきゅっと締め付けられるように苦しかった。

家に帰ったのは昼すぎだった。
ソファーに座りながら帰り道に買ってきたパンをかじる。やっぱり味気ないのは、一人だからだろうか。
思えばおかしな話だ。
少年だった自分は今から数年前、一人で旅に出た。ポケモン達とイッシュ地方をぐるりと回り、一人で過ごすことだって多かったのに。
それなのに、今更寂しいだなんて感情が生まれるだなんて。

パンを食べながら先程購入した本を袋から取り出す。
書名を改めて見て、我ながらなんという本を買ったのかと思う。
でも後悔はしていない。彼を待つ為の暇つぶしには丁度いい。そして、彼を想う為にも丁度いい、なんて。



グリーンさんが帰宅してきたのは、本を三分の二程読んだ頃だった。
「おかえり」と声を返してやれば、嬉しそうにふわりと優しい笑みを浮かべる彼は本当に可愛い人だと思う。
ジムの仕事から帰ってきたばかりだというのにグリーンさんは愛用の緑色のエプロンを身につけきゅっと紐を腰で結んだ。
彼はいつもそうだ。仕事がある日でもない日でも必ず家事は全て彼がこなす。自分に家事が出来ないわけではないが、彼が「俺がやるからお前は休んでていいから」などと言うのでそれに甘えている状態だ。
疲れてるのは彼の方だ。自分は今日だって何もしていないというのに。
しかし、彼が嬉しそうに冷蔵庫の中身と睨めっこをし、時折鼻歌交じりに料理を作る姿がとても愛おしく感じる、それが為に彼に甘える自分は我侭な男なのだろうか。
ソファーの背もたれの方を振り返り、キッチンへ立つ相手の姿を見ると、丁度冷蔵庫から取り出した色とりどりの野菜を並べているところだった。
改めてその後姿を見ると、思いのほか華奢な造りをしている。いつもしっかりとしていて面倒見がよくて、俗に言う兄貴分な彼だから、頼りになり大きく見えたのだろうか。それとも優しすぎるくらいの彼の広い心がそう見せていたのだろうか。

(…腰ほっそ…)

後ろでリボン型に結ばれた紐のせいで細い腰が強調される。
そういえば服を脱いだ彼の身体は白くか細く、触れたら壊れてしまいそうなものだった。もっとも、彼の身体を見たのは同棲をする前、大分前なのだけれど。

なぜ身体を重ねないのか、と他人はいうかもしれない。いや、いうであろう。だが、そう問われたところで自分はきっと上手く答えることが出来ないと思う。的確な理由、言い訳など言葉に出来ない。ただ言える事は、これも俺の我侭だということだ。
グリーンさんが好きだから、大好きだから、指を絡めて手を繋ぎたい、あの柔らかい頬を撫でながらキスをしたい、邪魔なものを全て脱ぎ捨てて深く深く身体を重ねたい。
しかし、このような欲望に忠実になれるほど自分は強くも素直でもなかった。
手を伸ばせば届く距離なのに、いざ触れようとすると理性が邪魔をする。触れてしまったら、完璧に溺れてしまったら、止まらなくなり彼を壊してしまいそうで、怖くなる。
あぁ、感情が抑えられなくなるという衝動にこんなに怯えているなんて、なんてかっこ悪いんだろう。

自分への劣等感に溜息が出そうになり、慌てて誤魔化すように本のページを捲る。
297ページ、あぁ、もう新章に突入したんだ。

(…人間は名前を呼ぶと安心するもの…呼び捨てやあだ名などで呼べば一気に壁はなくなる…)

長々とした論述形式の文字の羅列の中に気になる言葉を見つけて拾った。なんとも興味深く、そして納得させられるような文章だ。
確かに、自分も人から呼ばれるとき、トウヤ君やトウヤさんなどと呼ばれるより、トウヤと呼ばれた方が親近感が沸く。誰だってそうだろう。親しげに名前を呼ぶということは、その人との間柄とより近くなり、見えない壁を壊す第一歩だ。それはとても簡単なことだというのに、なぜ自分は気付かなかったのだろう。
思えば、確かに以前から少し感じ取ってはいたのだ。「グリーンさん」と呼ぶたびに僅かに曇っていく彼の顔を。気付いていたのに、気付かなかっただなんて、そんな。

(…何が人の感情に敏感なほう、だよ)

とても腹立たしかった。結局は、自分は彼に甘えて目を瞑っていたに過ぎなかったという事実が、目を逸らした自分が、嫌で嫌で仕方なかった。
悔しさの余り密かに唇を噛み締めてしまう。ぐっと握った拳に力が入ってしまい、手のひらに爪がくい込む。どちらも痛かった。でも、彼が今まで感じてきた寂しさという痛みに比べればこんな痛みなど、到底敵わないだろう。

「ねぇ、グリーン」
「んー?……え?」

キリキリと痛み出した胸を緩和させるように胸元をぎゅっと握り締めながら発した彼の名前を呼ぶ声は自分で聞いても情けなくなるほどに苦しそうだった。
突然呼び捨てになった俺に驚きを隠せない彼は、目を丸くさせポカンと暫く固まった後、頬を徐々に赤らめて目を泳がせた。照れているのが丸わかりな彼が愛おしい。あぁ、そう、俺が見たかったのはこんな可愛い顔だ。
本をテーブルに置き、一歩一歩近付く。当たり前に逃げることも近付くこともしない彼との距離を詰めるのは容易なことであった。

「何ビックリしてんの?ずっとこう呼んで欲しかったんでしょ?」

嘘だ嘘だ。数分前まで気付けなかったことなのに、どうして自分の口はこうも簡単に偽りの言葉を述べてしまうのだろう。彼を傷付けまいとして発したはずの言葉なのに、それはまるで自分自身を傷付けないように無意識に自己防衛をしたようなものに聞こえて、思わず嘲笑的に笑ってしまった。
グリーンの滑らかな白い頬に手を伸ばす。本当に綺麗なラインを描いた輪郭をなぞりながらグリーンの瞳を覗き込んだ。未だ照れくさそうに頬を赤らめながら時折ゆらゆらと瞳を揺らすが、その吸い込まれるような緑色が俺の目から逸らされることは全くなかった。
そのまま明るい茶色の細い髪の毛に隠れた耳を触りたくてサラサラな髪を耳にかけてやる。熱くなった耳を指先で触れれば素直にぴくりと肩が震える。グリーンは今でも本当に心も身体も素直だということに妙に安心した自分がいて、再び罪悪感が募る。
謝りたいことは山程ある。しかし、今ここで謝ったところでグリーンは俺の罪を否定するであろう。
あぁ、それならば、いっそ。




その感情は愛というものでした
(好きでなく愛してる、)
(さぁ、完全に貴方に溺れてしまおう)





グリーン、グリーン。赤く火照る耳に口付けながら愛しい愛しい彼の名前を何回も呼ぼう。もう、何も怖くはない。




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