「グリーンさん」

彼は俺をそう呼ぶ。
以前からそうだった。付き合ってもう1年以上経つというのに、だ。
そのことについて彼に問えば、「だって一応年上だし、それにポケモントレーナーとしては先輩だしね」と当たり前のことのようにさらりと答えた。
俺はそれが少し不満だ。
だって、年上だとか、先輩だとか、そんなものはもう関係ないではないか。俺と彼との関係は先輩後輩ではなく、恋人同士なのだ。恋人同士がそんなものを気にしているのなんておかしいことではないのだろうか。
しかし、そう思うも彼に言えばまたさらりとかわされる。まるで落ちてきた緑色の葉をひらりと避けるように、難なく楽々と身をかわすのだ。そう、彼にとって俺の扱いはお手の物なのである。
だが、俺も一つだとはいえ、年下の男一人の心を動かせないわけではない。何度も何度も説得し、その成果を出すように彼の口調から敬語が消えたのは今から数ヶ月も前の話だ。

(…そんなに、まだ恋人同士って感じしねーのかなぁ…)

はあ、と溜息を吐けば、それは愛用のイーブイの絵柄が描いあるマグカップの中にあるコーヒーの茶色に吸い込まれ、奥底に沈んでいった。



「ただいまー」
「おかえり、グリーンさん」

トキワシティに引っ越してからというもの、ジムへの往復が大分楽になった。以前はピジョットに乗って1時間くらい飛んでいたから徒歩15分、まして急いでいる時はピジョットに乗って2、3分だなんて夢のようだ。
そのおかげでくたくたになって帰るということもほとんど無くなったし、家に帰れば大好きな恋人もいるし、俺は本当に幸せ者だと思う。だから、帰ってから俺が夕飯を作り、洗濯物を畳み、簡単な掃除をするにしても、それは幸せ分の返還だということにしておこう。

「ちょっと待ってろな、今飯作るから」
「うん」

読んでいる、なんだか難しそうな本からちらりと目を離してこくりと頷く。その時僅かに上がった口端に彼なりの柔らかい愛情を感じた、気でいる。こうでもしないと暴君予備軍の彼の恋人なんて勤められないであろう。
自分はこの関係で十分すぎるほど満たされているし、満足。だからこれでいいのだ。それに、そんな彼から時にくれる優しさだとか、愛情だとかが堪らなく嬉しいのだ。
エプロンの紐をきゅっと結びキッチンと向き合う。今日の夕飯は野菜がたっぷり入ったパスタにでもしようか。本当は寒さもピークになる今日この頃なので体が温まるシチューでも作ってやりたいが、生憎時間がない。明日はジムも休みだからシチューは明日にでも作ってやろう。
手を洗いながら考え、タオルで拭いてから野菜を取ろうと冷蔵庫へ向きなおす。色とりどりの野菜を手に持ちまな板へと並べると、キッチンが一気に明るくなった。
色とりどりの野菜を見て、そういえばアボカドもあったはずだということを思い出した。一緒にスーパーに買い物へ行ったときにトウヤが好んで買ったものだ。本当にこいつは舌が洋風に作られているな、と感じたのはいつものことである。

「ねぇ、グリーン」
「んー?……え?」

冷蔵庫からアボカドを手に取ると、耳に入ってきたいつもとなんら変わらぬ声に思わずそれを落としそうになってしまった。
だって今彼の口から発せられたのは紛れもない自分の名前で。しかも、ずっと気にしていたものがなくなっているとくれば、驚くのも当たり前だろう。
突然のことに未だ困惑し、言葉が出ない俺にソファーから立ち上がって一歩一歩近付いてくるトウヤ。その距離はあっという間になくなってしまった。

「何ビックリしてんの?ずっとこう呼んで欲しかったんでしょ?」

クスクスと笑うその表情は、いつもと変わらずに意地悪いものだ。しかし、その笑顔は今日はいつにも増してどこか楽しそうにも見え、それでいてすごく切なげにも見えた。
伸びてくる手が俺の頬を捕らえる。トウヤの細く長い綺麗な指先は、俺の頬を滑らかに滑り輪郭をゆっくりとなぞっていく。
名前で呼ばれたことと、至近距離でのこの行動に妙に照れ臭くなってしまって目を逸らしたくなってしまうが、自分を見つめるトウヤの瞳があまりにも優しくて、そしてその優しさの奥に何か熱っぽいものが見えて目を逸らすなんてことは出来なくなってしまった。
輪郭を撫でていた指が耳に触れる。耳にかかっていた髪の毛を器用に耳にかけられ、部屋の空気に晒され少し赤くなってしまった耳にトウヤの指が滑り込む。ぞくりと擽ったい感覚が背中に走り思わず肩を揺らすとその指はすぐにそのまま後頭部へ回っていった。
後頭部を優しく撫でられながらぐっと強い力で引き寄せられる。そして、先程晒された耳にトウヤの唇が触れると同時に普段の何倍もの甘ったるい声で囁かれた自分の名前に身体の芯からとろけてしまいそうな感覚に陥った。




境界線、越えてもいいですか
(何度も呼ばれた自分の名前が)
(愛おしく感じるなんて、そんな)





誰もいなくなったキッチンには、まな板の上に並んだカラフルな野菜と、床に落ちて形が歪んでしまった完熟のアボカドだけが残った。




- ナノ -