サザナミ湾に吹く風は海独特の潮を含んだ重たいものだった。波際よりよりも大分下がったところの砂浜に直接腰を下ろす男の髪もまた少しずつ重たいものになっており、彼がこの場所に随分と長い時間いたということを証明していた。
海風に帽子を持っていかれるのが嫌なのか、ただ単に風にあたりたかっただけなのか、彼の帽子は頭にはなく、彼の足元に静かに置かれてある。
サラサラと揺れるチョコレートブラウンの髪が頬を掠めてトウヤは僅かに不快そうに目を細めた。不機嫌そうに歪んだ顔までも整って見えるのは、彼の生まれつきの端整な顔のせいか。
トウヤは顔がよかった。頭もよかった。決してベラベラと喋る方ではなく口も悪いときもあるが、口下手でもなかった。そう、トウヤは人から言わせれば所謂完璧な男だった。
そんな完璧な男が少し寂しげに眉を寄せて見つめた先は、深い青色に染まった海の先であろうか、それとも淡い青色の広がる空の彼方であろうか。トウヤの前髪が下を向いたことによってサラリと重力に従って落ちた。
その下に落ちた髪の毛がぶわりと下から渦巻くように発生した強い風によって持ち上げられる。不自然に巻き起こされた風には覚えがある。トウヤが眉を顰めて顔を上げると、その風を巻き起こした人物、もといポケモンが双方の四つの目を向けきょとんとした表情で彼を見返した。
「久々だね、トウヤ」
「…N」
Nは色素の薄い髪と同じ緑色の瞳でトウヤを見た後、その斜め後ろに腰を下ろしている彼のレシラムにちらりと目を向けた。
トウヤはNのその瞳があまり好きではなかった。語らずとも心の声を読まれてしまうような、全てを見透かしたような、それでいて少し冷めたようなその瞳。以前幼馴染に「君とNの瞳は少し感じが似ている」と言われたことがあった。しかし、トウヤはそれを否定した。だって、自分は彼のように純粋でもポケモンや人の感情を読むことも出来ないのだから。
「……本当にNはいつも突然だな、現れるのが」
「僕が君の前に現れるのに許可は必要かい?」
「……お前のそういうところ、嫌い」
足元に置いていた帽子を手に取り、丁寧に砂を払いながらトウヤは小さく呟いた。Nの瞳から目を逸らす、というより自分の表情自体を隠すように目深に被られた帽子のつばのせいで見えなくなってしまった顔を見て、Nはトウヤから目を逸らしレシラムのほうを向いた。
Nのゼクロムの片割れ、元は一つの英雄であったポケモン。伝説のポケモンの名に相応しく煌々と輝く真っ白の毛や、凄まじいオーラは貫禄たっぷりだ。あのころに比べてレベルも大きく上がっているようで、レシラムの強さというものがより一層びんびんと伝わってくる。
「…そう、トウヤ、カントーに行ったんだ」
「………だから、なんだよ」
ほら、きた。トウヤは内心下唇を噛んだ。
Nのことだ、どうせもう自分がずっとここに佇んでいることも、なぜこんなにも落ち込んでいるのかも、分かっているんだろう。そして、自分に言う言葉も、きっと、見つかっているんだろう。Nは真っ直ぐな男だから。
「自分の気持ちを躊躇して主張できないのは、本当に解せない」
だからトウヤはこの男を心底嫌いになることが出来なかった。人間離れた能力を持ち、人とは違う独特の考えを持つ。しかし、彼はいつでも真っ直ぐで、謂わば自分の気持ちにも人の気持ちにも素直で疑わない性格だ。キラキラと輝くことはないが、いつも自分の理想をその緑の瞳で追うNを、トウヤが嫌うなんてことはこの先ずっとないだろう。
「…Nには分かんないだろ、放っておいて」
あの事を思い出すと堪らなく苦しくなってトウヤは思わず低めの声で呟いた。
脳内に映し出される映像の中で、自分の想い人は別の男と仲よさげに歩いていた。彼とは一度手合わせしただけだ。しかし、その時彼の見せるバトルに、ポケモンへの愛に、そして何より彼の内側から出る秘めたオーラに惹かれた。そのオーラは強い者を表すのと一緒だ。だが、その奥、もっと内側の一生懸命繋いでいかなければ切れてしまいそうな危うい糸を垣間見て、守ってやりたくなった。傍についてあげなくなった。あの、綺麗な顔を他の奴の手で歪ませたくなかった。
そんな気持ちで再び足を運んだトキワジム。そしてトウヤは見たのだ、グリーンの隣で親しげに微笑みながら肩を並べて歩く男の姿を。
「なぜ言わない。なぜ自分を素直に曝け出さない。自分の思っていることを口にしないのはとても勿体無いことだよ」
「…っ、Nには俺の気持ちなんて分かんないだろ!」
「確かにトウヤの気持ちは理解できない。でも、トウヤをずっと見守ってきたポケモンの気持ちは痛いほどよく分かるよ」
バッと顔を上げ声を荒げた自分はNの目にどう映っているのだろうか。奥歯を噛み締めながら睨みを効かせているのにも関わらず、睨まれている当の本人は相変わらず表情一つ変えない薄い笑みを浮かべたままだった。
「言葉にしなきゃ気持ちは伝わらない。君はポケモンじゃないから自分で言えるだろう?トウヤ、君の声を聞かせてあげなよ。君の気持ちを主張して、もしかしたら解釈が合わない人とは平行線を辿るどころか、それが曲線を描いて離れていってしまうかもしれない。でも君が好んだんだ。僕は見たことのない彼がとてもいい人に見えるよ。君のレシラムも言っているしね。真っ直ぐにぶつかってきた君はどこだい?君はそんな不合理なことしないだろう?」
直らない早口でNは口を捲くし立てた。途端、海風が強く吹き、Nの話を無意識に夢中で聞いていたトウヤの帽子が宙を舞い、すぐ真後ろに落ちた。
再びトウヤの髪が風に揺れて靡く。しかし、トウヤはもう、不快そうに眉を顰めることはしなかった。
「…N」
「なんだい?」
「……お前のそういうところ、嫌いじゃないよ」
立ち上がり帽子を被ったトウヤの後ろ姿を見て、Nがにっこりと優しい微笑みを浮かべる。歩き出したトウヤの表情までもがどこか温かい笑みを浮かべているというのは、きっと、彼しか知らないだろう。
人は俺を、救いようのない馬鹿だというのかもしれない
(それでもいい、自分は完璧じゃない)
(だから貴方が補ってくれますか?)
「あの子なら大丈夫。トウヤの気持ち絶対伝わる」
大きな風を巻き起こしレシラムと共に空へ羽ばたいていったトウヤの小さくなった姿を見ながらゼクロムに話しかけると、黒き英雄は主人であるNと自分の片割れに届けるように大きく勇ましく鳴いた。