あの日を境に僕は必然的にあのコーヒーショップで朝食を取ることが多くなった。来る度来る度に彼がいるわけでもない。それでも足を運んでしまうのは、ここのモーニングプレートが、駅中ということもあり、安く、早く、美味しいというサラリーマンにとって大事な三大要素を踏まえているからだ。…まぁ、それが言い訳にすぎないということは僕自身が一番よく分かっているのだけれども。

「……モーニングプレートのC、オレンジで」
「畏まりました、450円でございます」

今日も彼はいなかった。最近めっきり彼を見ていない。もしかして、ここの仕事をやめてしまったのだろうか。でも、なぜか分からないけど、彼はここの仕事をやめていない気がして。ずっとここに通っていればまた、彼の姿が見れる気がして。その予感はあくまで僕の勘であるから当てになどならない。しかし、そうでも思っていないと、まるで心の支えが抜けてしまった柱のようにぐらぐらと揺れてしまって安定しないのだ。
前髪を軽く立たせたスタイリッシュな黒髪の青年からお釣りの50円玉と早くも出来上がったモーニングプレートのセットを受け取って、勝手に自分の席と決めた指定席へと腰を下ろした。あぁ、今日もこの腰を上げるのに少し時間と憂鬱感を抱えなければならないようだ。


その憂鬱感は珍しく会社へ行っても続いていた。もう一週間弱も会っていないからだろうか。いや、まず会うという表現自体おかしいのかもしれない。だって僕からしたら彼に会いに行ってるにすぎないのだが、彼にはその気は全くなく、僕は彼にとって客の一人でしかないのだから。
その事実を自ら叩きつけたにも関わらず深く沈む心に本当に最近の自分は彼中心の生活を送っていたこと、そして彼に心を奪われたのだということに気付かされる。
そんな憂鬱感に呑まれた僕の仕事が中々進まなかったというのはもう察しがつくだろう。



(…ご飯、どうしよう)

定時なら五時に終わるはずの仕事が今日は大分延びてしまった。それもこれも自分が悪いのだけれど、いつも真面目に仕事をそつ無くこなす僕が初の自主残業を名乗り出たということもあって、上司がひどく驚いていた。「なんかあったのか?調子悪いのか?」と問うてくる上司に無理矢理浮かべた愛想苦笑いしか出来なかったのはいうまでもない。
外はもう真っ暗で、自分がいかに長々と残業をしていたか思い知らされる。このままではいけない。でもまた彼に会いたい、その想いのほうが遥かに強いのは分かっているので、どうにも出来なかった。
今頃、普段なら自宅で夕飯を食べているであろうこの時間。腹が減るのも当たり前だ。どこかで外食をしてしまおうか、そんな考えが頭を過ぎるも、如何せんそんな気分にもならない。そんな時、電車が来るというアナウンスを聞いて慌ててホームへ下りた。
ホームには夕方に帰るときよりは若干人が少ないことが窺えたが、やってきた電車にぎゅうぎゅうに箱詰めされた人を見てうんざりする。いつか押し潰されてしまうのではないか、などと馬鹿げた考えをしながら乗り込んだ車内は相変わらずの人口密度で心の中で溜息を吐いた。

「ドアが閉まります、ご注意ください」

再びアナウンスがホーム内に響く。その時だった。脳裏に焼きついて離れない人物が目に飛び込んできたのは。

(あ…)

所謂駆け込み乗車をした彼は狭い車内で口元を押さえ、必死に乱れた息を整えていた。
走ってきたせいで少しだけ紅潮した頬、乱れた息を整えようとして静かに深呼吸をしているがために大きく上下に動く肩、そして長い睫が下りる少し伏せ目がちの瞳。やっと会えた彼はやっぱり綺麗で、そして、ちょっとドキッとするような色っぽさも醸し出していた。

(…直視、出来ない…)

ドアの目の前、そして手すりのある角へと乗り込んだ彼の表情は、窓ガラスに反射して斜め後ろにいる僕にも見えてしまう。思わず彼から目を逸らしてしまう僕は、意気地のない男だそうか。やっと、やっと久しぶりに会えたというのに。

電車に揺られてどのくらいの時間が経っただろう。もう駅を大分通り過ぎたから15分か20分は経っているだろうか。そんなことをぼんやりと考えながらそっと顔を上げる。彼はまだ降りていなかった。
窓ガラスに反射した彼の表情は未だ口元を手で必死に押さえて苦しそうにしていた。でも、なぜまだ苦しそうにしているのだろうか。あの時から時間は結構経っているというのに。
疑問に思いつつ彼を見ていると、彼の肩がびくりと大きく震え、その場で身を捩るようにもぞもぞと動き出した。そしてちらちらと後ろを確かめるようとしている。先程まで少し紅潮していた頬は、より一層赤く色づき、瞳はうるうると潤んで今にも涙という粒が零れ落ちてしまいそうだ。

(…もしかして…)

ピンときた考え、それは絶対に当たってほしくはないのだけれども。彼に少し近付き、人ごみに埋もれた足元を見る。当たってほしくなかった、その勘でしかない考えが、自分の目下で行われていた。
彼の小ぶりな臀部を撫でるゴツゴツとした大きい手。その手は臀部より下に潜り、足の間、太ももにまでするりするりと手を滑らかにすべり込ませて、そして、
頭の中が真っ赤になり、カッとするのが分かった。
それと同時にゴツゴツとした男の手首を掴む。びくりと震える男の手の感触がやけに気持ち悪かった。

「…何、してるんですか」

低く唸るような自分の声に自分でも驚いてしまう。気持ち悪いと思っていたはずの男の腕を掴む手に力が入る。ギリギリとくい込む指先。あぁ、なんで僕は、もっと早くに気付いてあげられなかったのだろう。なんで、なんで、僕は。


次の駅で降りた僕たち。しかし、あろうことか、彼は己を痴漢した男を逃がしたのだ。驚いた僕に、彼は眉を下げ困ったような笑顔を浮かべながら「俺は男だから」と言った。

「本当にありがとうございました。すみません、迷惑かけちまって」
「…別に、僕は…」
「また店、来てくださいね。俺、待ってるから」
「うん。…え?」
「じゃあ、俺はこれで」

ニッと悪戯で元気な笑みを浮かべながら手を振り、ホームから改札口へ向かう階段を駆け上っていく彼。そんな彼の後ろ姿を見つめながら、先程の彼の言葉を脳内に廻らし、徐々に火照っていく頬に手をあてた。




僕の中で君は、「特別」って名前だよ
(次こそは、ちゃんと、)
(名前、聞けるかな)





にやけそうになる口元を引き締めながら、数十分とは対照的な気持ちで彼が駆け上がっていった階段を上る僕の足取りは驚くくらいに軽かった。




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