東京の朝は忙しい、と思う。
僕が幼い頃住んでいた町は、人があまりいなくて、家も一軒一軒離れていて。外へ出ればたまに人にすれ違うくらい。電車なんて、自転車を漕ぎに漕ぎまくって着く小さな駅から1時間に数本発車する人口密度の低いものだ。良くいえば長閑、言い方を悪くすればただの田舎だ。
そんな僕がこの前、上京した。僕の住んでいる地域では働きどころがないためだ。実家から電車で通える大きな街もあるのだが、この不況ではそこすらあてにならなかった。
僕が上京して驚いたのは、まず、この人口密度だった。どんなに朝早くでも、夜遅くても、外へ出れば人がいる。家はすべて隙間がないほどまでに密集しており、電車も数分歩けば駅に着く。東京はとても便利な街だ、とよく耳にしていたが、僕にとってはすごく息苦しい街だった。


「…っ、」

そして、僕がこの街を息苦しいと肌で感じるのは、毎日使わなきゃいけない通勤電車だ。
10両程繋がっている電車にこれでもかというくらい人が乗る。僕の地元を走っていた電車は2両しかなくて、それでも人は数えるくらいしか乗っていなかったから、えらい違いだ。
今日も満員電車に乗り込む。自分が乗った時点で既に車内はいっぱいいっぱいだというのに、後に並ぶ人々はまだ人を押し込んで乗ってくる。この電車が発車しても3分も満たないうちに次の電車が来るのだから、そっちに乗ればいいのに。そう思うも、みんなそうはいかないらしい。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた車内は色んな人とくっつき合い、色んな人の匂いが混じる。こんな経験、今までにしたことなかったから本当に苦痛でしか感じない。息をするのも嫌なくらいだ。
僕の口から小さい溜息が出るのと同時に閉まっていたドアが開く。どうやら目的の駅に着いたようだ。

僕の働いている会社があるところの最寄り駅は、結構大きめでこれはまた人が沢山いる。
僕と同じようにスーツを着たビジネスマン達は忙しそうに携帯片手に小走りで出勤し、清楚なスーツを着た女の人々は風に吹かれる髪の毛を気にしながら足早に歩く。色とりどりの服を着た大学生は友達と楽しそうに話し、制服を来た高校生は朝からキャッキャッと高笑いをする。この駅にいっぱい人がいるのは、ここ周辺が学校を含めたビジネス街だからだ。
改札をくぐろうと思って鞄の中から黄色い定期入れを取り出すと、それと同時に後ろから走ってきた女子高生にぶつかられ下に落としてしまった。定期入れをゆっくりと拾い上げると遠くのほうで「お兄さんごめーん!」と謝る声が聞こえた。謝るのならしっかりと謝ってもらいたいものだ。
どうして東京はどこへ行っても人がいるのだろう。もううんざりだ。
拾い上げた定期入れを鞄の中へしまい、身を翻す。改札の外へ出たがっている人の波に逆らってホームのほうへ戻る。出勤時間までまだ大分時間がある。どうせ早く行っても仕事を押し付けられてタダ働きだ。それならば出勤時間ギリギリまで自分の時間を過ごそうじゃないか。

(…あぁ、帰りたい)

湧き出る欲望をぐっと抑えて僕はホームに降りる階段の傍にあるコーヒーショップへ入っていった。


「いらっしゃいませ。おはようございます」

いつも素通りするだけのコーヒーショップの中は、思ってたよりも広かった。テーブル席が4つに各所にあるカウンター席が10つ。店内には控えめに音楽がかかり、それ以外はテーブル席に座る二人組みの喋る話し声やカチャカチャとぶつかり合う皿の音しか聞こえない。先程までのざわざわとした雑音が嘘のようだ。
先程挨拶をされた店員のいるレジへ足を進める。メニューを見て黙りこくっている僕を見て店員はにこりと笑みを浮かべた。
綺麗な人だ、と僕は素直に思った。
明るい茶髪に白い肌、それに吸い込まれるように輝く深い緑色の瞳。顔立ちもとても端整だ。白いシャツが細身の体に良く似合う。綺麗にたたみ捲くられた袖から出る白く細い腕やその先にある指も本当に綺麗だった。

(…東京の人って、芸能人みたい)

いつの間にかメニューからその店員に視線が移りじっと見つめる形になってしまっていた。店員は少し照れくさそうに笑った後「えーと…ご注文は?」と、その形のいい唇から透き通るような低くない、どちらかといえば少し高めの声を出した。
再びメニューに視線を戻す。しかし、困ったことに僕はコーヒーの類をあまり飲んだことがなかった。メニューには沢山のコーヒーの種類。ブレンド、アメリカン、エスプレッソ、深煎り…何が何のことだかさっぱり分からない。それが表情に出てしまっていたのか、急に店員がクスクスと笑い始めた。

「……何?」
「え?いや、なんか難しい顔してるなって思って」

店員は意地悪くニッと笑いながら言ってきた。自分と同い年か、それとも少し年下だろうか、そんな初対面の彼に言われた言葉は普通ならその馴れ馴れしさに苛立ってしまいそうなのに、今はなぜか苛立たない。それどころか、どこか温かいのだ。心が。
東京に来て、いや、今までにこんなに胸が温かくなったことはあっただろうか。

「…あ、すいません、なんか」

黙りこくってる僕を見て怒っているとでも思ったのだろうか、彼は苦笑いしながら謝ってきた。そんな表情にも高鳴る胸に戸惑い声が出ない。慌ててふるふると首を横に振ると、彼は安心したのかホッと安堵の表情に変わり再び柔らかい笑みを見せた。
いよいよドキンドキンと大きく跳ねる鼓動に絶えられなくなり、ろくにメニューも見ずに適当に指を刺した。「これ、一つ」そう言った僕の声はひどく擦れて上ずってしまっていて、自分でもあまりのかっこ悪さに恥ずかしくなってしまった。

「少々お待ちください」

彼の声がなんだか遠く感じる。そういえばここに来てまだ5分も経っていないのに、とても長い時間彼と過ごした気がする。僕と彼の間だけ時間が止まってしまったような。なんだか本当に不思議な気分だ。
自分より一段上のカウンターから出されたものは、コーヒーカップに注がれたホットココアだった。僕の前にコトンと音を立てて置かれたカップの中でココアに浮いた生クリームが揺れる。「お待たせしました」なんて言って、またにこりと笑う彼を見て、顔が、心が熱くなるのを感じた。

適当に空いた席を見つけて腰を下ろす。
カップ注がれたココアから甘ったるい匂いがする。カップに口をつけて少し飲むと、今度は口いっぱいに甘い味と香りが広がった。
未だドキンドキンと打つ不慣れな大きい鼓動の音に戸惑う。甘い香りを放つココアのカップをソーサーに戻しながら、僕は昔、友達に聞いた話をふと思い出した。ああ、なんだ、これがそうなのか。
カチャリとカップがソーサーに降り立つ音が耳に入る。反対に視界に入ってきたのは、カウンターで何かを作っている彼の姿。それを先程僕にしたようにカウンター越しに新しく来た客に渡している。どうやら、さっき作っていたのはサンドウィッチだったようだ。
客にそれを渡した後、仕事の空いた彼と目が合う。再びドキンと大きく跳ねる心臓に合わせるように瞬時に熱くなる頬に、無意識に震えるカップの持ち手に触れている指先。
そんな僕に、彼は不思議そうな顔をしたあとニコッと笑ってくれた。




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