気が付けば時計の2つの針は頂点を目指し刻々と時を刻んでいた。
もうすぐ日付が変わる。そして、もうすぐ年が変わる。シンとした冷たい空気が張り詰めているであろう窓の外から、どこかの神社で鳴らしている鐘の音が微かに聞こえた。
大晦日につかれる108回の除夜の鐘は、人間の煩悩の数だと言われている。人間、一年間にそんなにも欲が出るものだろうか。少なくとも、最近の自分には108個もの煩悩は存在しないと言えよう。

(昔はあんなに欲深かったのにな…)

テーブルに頬杖をつきながら時計の針を眺める。また一歩、来年に近付いた。
昔の自分はというと、それはもう欲深く、それこそ108個の煩悩なんかじゃ収まらないくらいであった。アイツに勝ちたい。みんなに認めて欲しい。ポケモンを人より多く掴まえたい。強くなりたい。これじゃ足りない。足りない。もっともっと、もっと強く。
今思えば、よくもまぁそんなに欲があったもんだ、と逆に感心してしまう。それもこれも今の自分にほとんど欲がなくなってしまったからであるけれど。

しかし、欲が全くないといえば嘘になる。今だってもっと強くなりたい、誰にも負けたくないと常に思っているし、じいさんから貰ったポケモン図鑑を完成させたいとも思っている。でも、これは欲というより目標というものである。
今の欲といえば、

「レッド君、帰ってこないの?」
「……さぁな」

そう、あいつのことだけだ。
キッチンで洗い物の手を休めた姉ちゃんが此方まで来てどこか心配そうに訊ねてくる。それにぶっきらぼうに答えた俺は、姉ちゃんの目に一体どのように映っているのだろうか。

レッドはチャンピオンになった俺をすぐに負かして新チャンピオンになった。だが、チャンピオンになることを辞退し、そのまま行方を晦ませた。それから数年、連絡すら全くつかず、所謂行方不明といった状態に陥ったが、1年ほど前にふらりと帰ってきてその大いなる存在を再び見せ付けたのだ。
レッドがいなくなった数年の間、俺はレッドを捜し求めた。その時、俺は気付いてしまったのだ。俺がレッドを捜し求める理由は、ただ単に幼馴染だとか、親友だとか、ライバルだとか、はたまた俺を負かしたにも関わらずチャンピオンの座を辞退して行方を晦ましたあいつへの怒りだとか、そんなものではないことを。
そして、1年ほど前にふらりと帰ってきたレッドを見た瞬間、俺の思いは溢れるというより崩れ落ちるようにボロボロと零れ出した。それを見たレッドは静かに俺の名前を呼び、「ずっと、この時を待ってたんだ」などと、今までに見いた中で一番穏やかで嬉しそうな表情をしながら呟いた。とどのつまり、俺らは両想いだったというわけだ。
それから俺達は今まで会わなかった月日の分を埋めるように会い、身体も重ねた。その時は、この世にこんな幸せなことがあるのかというくらい幸せで幸せで。レッドの仕草や声の一つ一つにすらも胸を高鳴らせ、まるで毎日恋をしているようだった。当時の俺は、相当な乙男であっただろう。
けれど、今となってはそんな乙男なハートを持った俺はどこへいったことやら。レッドとの会う回数も徐々に減っていき、再びレッドはよくマサラの町から忽然と姿を消すようになった。勿論以前のようにずっと帰らないわけではないが、それでも帰る時のほうが珍しいとまで思わせてしまうまでの在宅率だ。
実際、しばらくあいつの顔を見ていないのだ。最悪の状況や、今後のことは、考えればキリがないのでなるべく考えないようにはしている。が、どうしても不安は拭いきれず、会っていない期間が増えるたびに増す一方だ。
自然と深い溜息が漏れる。年の最後の最後まで俺はあいつのことばかり考えてしまっているなんて、なんだかひとりよがりな気がしてならなくて少しだけ虚しくなった。


ピンポーン、と今の自分の気分にはそぐわないくらい軽快な機械音が家に響く。時計を確認すれば日付が回るちょうど5分前であった。

「お、アイツら来たかな」

手元に用意しておいたコートを着てマフラーを巻きながら足早に玄関向かう。今日はヒビキとコトネ、そしてシルバーと一緒に初詣へ行く約束をしているのだ。
可愛い後輩と過ごす年末年始もいいだろうと自分から誘えば、嬉しそうに二つ返事をしてくれた彼らの笑顔を思い出し、自然と気分が上がる。初詣から帰ってきたら少しずつだがお年玉でもあげようか。きっと彼らなら大喜びするだろう。
靴を履き、勢いよくドアを開ける。冷え切った外気と共に視界に入ってきたのは、ヒビキ達の笑顔と明るい声。

「…え…?」

とは程遠い人物と声だった。

「…ただいま、グリーン」

ああ、なんでお前はまたそんな顔をするんだ。つい5分前くらいまで不安でいっぱいであったというのに、彼の、レッドの穏やかに微笑む顔を見ただけで、そんなものは吹き飛んでしまった。
いつもコイツは馬鹿なんじゃないかと思ってしまう剥き出しになった白い腕が伸びてきて、俺の頬を捕らえる。グローブから出ている細く長い指は、此方がびくりと震えてしまうほどに冷たかった。

「レッド、なんで…」
「グリーンに言いたいことがあって」

冷たい指が自分の頬を滑る度にぞくぞくと背筋が震える。帽子の下に垂れた少し長めの前髪の間から覗くレッドの綺麗な赤い瞳に真っ直ぐ見つめられると、トクンと胸が鳴るのが分かった。

「……あけましておめでとう。今年も、大好きだよ、グリーン」




それでもまた、恋を
(ああ、一体これで)
(何度目の恋心を抱いただろう)





- ナノ -