彼と打ち解けるのに時間は全く掛からなかった。
並んでいる切り株の隣を指差し、こっち座れよ、なんて言われて言われるがままにそこに座れば、カップに入れられたホットミルクを渡された。それを飲みながら月を見上げ、ずっと話していると、ホットミルクのせいか身体の芯、心の奥底から温かくなった。
話した内容は確か今日の月は綺麗だとか、あそこの星の名前は何とかだとか、冬になればあちら側に違う星が見えるだとかそんな他愛の無い話ばかりだった。お互い、自身のことを一切語らず、そして相手のことの詮索もせず、そんな話ばかり。
しかし、僕にとってはそれがすごく楽しく感じた。それは、僕という存在が出来てから初めての感情に近いのかもしれない。心地いい時間、それがずっとずっと続けばいいとまで思った。
「なぁ、トウヤ」
「何ですか?」
「俺な、人、殺しちまったんだ」
突然切り出された話に、息がひゅっと小さく音を立てて詰まった。
そうだ、僕達死神は死期の近い、“罪人”を裁きにいくのだ。
隣に座る彼は先程まで穏やかな表情で話していたというのに、自ら切り出した話に悲痛に顔をくしゃりと歪めた。彼がずっと悲しげに月を見上げていたのはこのせいなのだろうか。
「…貴方みたいな人が、なんで」
人間を庇うようなことを言うのは初めてだった。
でも、僕は単純に悲しかったのだ。彼が罪人でなかったら僕は今ここにいないし、彼とは出会う運命でなかった。しかし、彼が罪人であるということは、僕はこの手で彼を殺し、その魂を持っていかなければいけないということで。
カップを持つ手に力が入る。力を入れないとガタガタと震えてしまいそうだ。
「……許せなかった」
彼はぽつりぽつりと話し出した。
彼は以前は街で暮らしていたらしい。その時、彼はあることが理由であまり外に出ることが出来ず、ほとんど家の中で過ごしたいた。そんな彼の家の隣に引っ越してきたのは同い年の少年を連れた家族。彼と少年はすぐに仲良くなった。彼にとっては唯一の友達、彼のある理由ごと、ありのままの姿を受け入れてくれる友達。しかし、そんな大切な友人を失うまでの時間はとても短かった。
真夜中に少年の家に強盗が入ったのだ。それを聞きつけ、助けようと必死に家の裏口から侵入した彼。そこで彼は、悪夢のような残虐劇を見ることになる。
キッチンにある勝手口から侵入した彼は真っ暗な室内をそろりそろりと慎重に歩く。その時、床に転がる何か大きいモノに足がぶつかり、あっという間に転んでしまった。ぎゅっと閉じた瞳を開けると目の前には少年の父親の顔があった。そう、床にごろごろと転がっていたのは少年の父親、母親、祖父母、そして、少年だったのだ。彼は慌てて少年の元へ行き、少年の身体を抱き起こす。幸い息はまだしているようだ。手にぬるりと生暖かい液体が付着した。
――っ、グリ、ーン…!
その時、一つの銃声が室内に響き渡った。同時に少年は力なくごろりと横たわる。息はもう、していなかった。
少年は俺を庇ったから死んだんだ。俺のせいで、俺がここにこなければ、俺が抱き起こさなければ、俺が友達なんかじゃなければ、俺が、俺が、俺のせいで、
「…気が付いたら、俺は血まみれで、犯人は死んでいた」
彼は自分の掌を見つめ、結んだり開いたりしている。僕は全く意味が分からなかった。気が付いたら、ということは彼は無我夢中で犯人を殺したというのか。でも、彼のような少年が、どうやって。
その時、彼はすっと切り株から立ち上がり、被っていた帽子を取った。
あぁ、僕はなんて不幸なんだろう。初めての感情を抱いた相手を僕の手で裁かなくてはいけない上に、相容れてはならない種族だなんて。
「…俺、人間じゃないんだ」
彼の頭には茶色の毛に覆われた耳がぴくぴくと動いていた。彼の明るい髪の色と茶色の色合いがよくマッチしており、それが月明かりに照れされることで細い毛の一本一本が輝いているように見え、綺麗だ。
「……驚いた、グリーンさんは狼男、だったんだね」
彼は脱いだ帽子をぎゅっと握り締め、唇を噛み締めて小さくこくりと頷いた。
彼は狼男でも少し特殊な種族であり、満月を見たら狼になるというのではなく、普段からずっと獣の耳は生えていて、興奮してしまうと全て狼になってしまうらしい。実際、今も大きな月を見上げていてもなんら変わりはないのだからそうなのだろう。
犯人を自らの手で殺してしまったあの時の彼は、あまりのショックから興奮状態に陥り、完全な狼の姿になってしまった。それ故にその時の記憶はないし、警察側もまさか人間がやったということにはならず謎の未解決事件となってしまったという。しかし、彼は無意識とはいえ自分が犯した罪に耐え切れずにこのその街を出て、この森の奥深くで一人で生活していたというのだ。
なんて不幸な、なんて優しい、罪人。僕は今までこんな罪人と出会ったことはなかった。
どこか遠くで犬が鳴く遠吠えが聞こえた。気が付けばタイムリミットまで5分を切っていた。
「話聞いてくれてありがとな。…最後にずっと一人で抱え込んできたことを話せてよかったよ。ごめんな、付き合わせちまって」
「グリーンさん、貴方はあと少しで死ぬ運命なんだ。でも僕は貴方が5分もないうちに死ぬなんて想像出来ない。…貴方はこれから何をするつもりなの?」
悲しげに微笑む彼がポケットから取り出したのは白い錠剤であった。きっとこれを飲んで自殺するつもりなのだろう。優しい、優しい彼の儚い最後だ。
それでも僕は納得が出来ない。だって、なんとも理不尽な死に方ではないか。彼が犯したことは確かに罪だ、それは紛れもない事実である。しかし、元はと言えば彼の友人一家を強盗且つ惨殺したほうがもっと重い罪であり、彼はその最悪の罪人を裁いた身。
このような考えは甘いと自分でも理解していた。罪に重いも軽いもないということも理解していた。それでも、目の前にあるあまりにも不幸な彼をこのまま逝かせるわけにはいかない。
「トウヤ、最後にお前に逢えてよかった」
彼は白い錠剤を持った手を口元に持っていく。その錠剤が唇に触れるまであと5秒、タイムリミットまであと10秒。
今まで僕は死者の魂を持ち帰らない死神の仲間を間抜けだと思っていた。なんの為に人間界へ降りたのだと、ルールを犯して排除されるために人間界へ降りたのかと、馬鹿にしていた。
でも今なら分かる。きっと排除されてしまった死神の仲間達もきっと、今の僕と同じ気持ちなのだ。
いつのことだか忘れてしまうくらい昔に、あの人が言った。
――死神は恋をしてはいけないのよ。誰だって愛する人を殺めることなんてできないでしょう?
そう、これは決して開けてはいけない禁断の扉なのだ。けど、これで君の命が救えるのならば、僕は喜んでその扉をこじ開けよう。
だって、僕は君に恋をしたのだから。
本気の恋は叶わないって、あの人が言ったから
(だったらせめて僕の手で)
(君を、君を、)
「ん…っ!」
初めて触れた身体は易々と引き寄せられてくれた。触れた唇、噛み付くようにするキス、口内に入り込む舌。
空になった口を半開きにしたまま、大きく見開かれた綺麗な深い緑の瞳からは一滴の雫が溢れ落ちる。あぁ、貴方はやっぱりとても綺麗だ。
でも、僕はもう二度と、君から溢れ落ちた雫を拭ってやることも出来ない。
僕が持っていたカップが地面に落ちて鈍い音を立てるのが微かに聞こえたのは、きっと優しい君のせいだろう。