目の前には闇。
その闇から抜け出したくて、一回瞳を閉じた。
瞳を開けるとそこに広がったのは闇。真っ黒な真っ黒な闇。前を見ても後ろを見ても闇。右も左も上も下も、どこを見ても自分の目に映るのはひどく暗い風景だった。漆黒は僕を包むと、深く深くに落ちていった。あぁ、僕はこの先この闇から抜け出すことが出来るのだろうか。
カタリ、と音がして背後に気配を感じる。気配のするほうへゆっくりと視線を向けるとそこにはあの人が立っていた、気がした。実際は気配しか感じることが出来ないのだから、あの人の実像を見ることは出来ない。ここは、何も見えない、暗い闇の中だ。
「…もう、時間ですか」
「えぇ。今日もお願いね、トウヤ」
「……はい」
重たい腰を上げ、空気を掴む。ただそれだけの行為なのに、手の中には既に冷たい鉄の塊のようなものが握られているのだから不思議だ。
僕はこの黒く重たい鉄の塊を持つ瞬間がとても嫌いだった。自分の種族を自らに知らしめているような感覚。先端に付いている鋭い刃を自分に向けられ、己の手で成敗することが出来たのならどんなにいいか。
あの世で罪を償うというリアリティーの欠片もない、空想的ファンタスティックな世界がこの世にあるとするならば罪を償うべきニンゲンは僕のほうだ。
なんて馬鹿げたことを考えた。
本当に馬鹿げている。何がリアリティーの欠片もないだ。事実、僕はそのファンタスティックな幻想世界で息をしているというのに。
いや、息をしているという表現は少しおかしいのかもしれない。実際、僕自身息をしているのかも、生きているのかも分からないのだ。
「トウヤ」
背後であの人の声がする。僕は踏み出そうとした足を止めた。
「いってらっしゃい」
返事は、しない。あの人の声を聞いてから足を前に踏み出した。
僕がニンゲンであったなら、その言葉は家族や恋人などの大好きな人に送られるとても幸せな言葉だろう。
あぁ、どうしたものか。今日は本当に馬鹿げたことを考えてしまう日のようだ。
闇の中から降り立った地は森の奥深くであった。
そびえ立つ高く生い茂った木々。木の隙間から漏れる月明かりに空を仰げば、不気味なまでにひどく大きく真っ白な月が浮かんでいた。
それにしても、こんな山奥に人なんて住んでいるのだろうか。人里離れたこんな地に住んでいる人なんて、とんだ変わり者か世捨て人、はたまた山男のような奴だろう。
そんなことを想像してたまには素敵な年上の女性でも狩りたいものだ、と深い溜息を吐いた。しかし、そんなことは永遠に有り得ることではなかった。
この仕事は一切異性と関わらない。間違いが起こらないように。決して起こってはいけない禁断の扉を開かないように、らしい。
僕達死神は、死期の近い、罪を背負った人の魂を迎えに行くのが仕事だ。
そう、迎えに行くだけの仕事。その仕事を受け入れ、死期の近い人間の魂を取りに人間世界へと降りていく。僕達は魂を取ってから闇の中へ戻ることが初めて許されるというルールがあり、逆に言えば魂を取らなければ人間世界にいることが出来るのだ。しかし、それも死期を逃さないというルールを決して破らないということを前提として。
死神にはルールがある。その中でも絶対に破ってはいけない最大のルールは人間の魂を取り損ねるということだ。これを破れば死神失格として排除される運命。当たり前だろう、死神が魂を取り損ねるなんて、そんな間抜けなこと絶対あってはならないことだ。
死神が仕事である魂を取り忘れるだなんてとことん間の抜けている奴に違いない。魂を取ってこないのならば何をしに人間世界に降り立ったのか。
考えれば考えるほどに呆れることしか出来ない自分の仲間種族を思い溜息を吐きながら、絨毯のように敷き詰められた落ち葉を踏みしめて森の中を進む。受けた仕事のタイムリミットは1時間後だ。決して短い時間ではないが、万が一を備えて早めにターゲットを見定めておきたい。
落ち葉の乾いた音はシンと静まる森の中に響く。そんな音を聞きながら突き進めば、森が開け、月の光がよく照らされているところに一人の人影を見付けた。
その人は並んだ切り株の一つに腰をかけ大きな月を見ている。周りが暗いからこれは見当でしかないのだが、帽子から出る明るい髪の毛の下は真っ白な肌をしており、身体の造りも比較的華奢な体型であった。もの悲しげに月を見上げている横顔が月明かりに照らされている。まるでその人の周りだけ月のスポットライトが当たっているようだ。僕はその光景をただ一言、綺麗だ、と思った。
「…誰かいるのか?」
月を見上げる体制を崩さぬまま、彼は静かに呟いた。高すぎず低すぎず、耳障りな感覚など全く感じない丁度いい心地のいい声。
「敏感なんですね」
本来姿を見せずに始末したいというのが自分のポリシーであるが、気付かれてしまっては仕方がない。一歩一歩とその人に近付いた。この時、本当は姿を見せずにやり過ごすことなんて簡単に出来た。でも、歩き続ける足は止まらない。もしかしたら、無意識に自ら彼に会いたいなどと思っていたのかもしれない。
姿を見せた僕に彼は、驚きも怯えもしなかった。ただただじっと見つめる双方の深緑はどこか悲しげにぐらりと揺れ、そして、静かに閉じられた。
「この世に死神が存在するって本当だったんだな」
「信じてなかったんですか?」
静かに口を紡いだ彼の口角は上がっていて、綺麗な弧を描いていた。しかし、変わらず瞳は哀愁に漂い、眉は反対に八の字を描いている。
僕は自分の口から出た言葉に驚いた。信じる、なんて言葉を出した自分に。
人間世界からすれば僕達など所詮、お伽噺、迷信にすぎないのだ。そして、僕自身も本当かどうかなんて分からない。実際は死神なんてこの世に存在しないのかもしれない。そう、生きているか、存在しているかも分からない僕は、人間による空想から作られた幻。
彼は僕の顔を見ると少しだけ驚いたような表情を向けた。そしてふわりと笑って言ったのだ。
「今信じたよ。お前がここにいるから」
僕はきっと、この言葉をずっと待っていたのかもしれない。