ドンッと大きく鈍い音が室内に響いた。
目の前に広がる風景はいつもと同じもので、僕の部屋の赤いカーペットも使われたままのゲーム機も、転がったバックやモンスターボールも並んだぬいぐるみも、いつもと同じだった。
ただ一つ違うことと言えば、いつも一緒に遊んでいる幼馴染が僕の隣に座っているのではなく、床に転がっていることくらいだろうか。
幼馴染は無言でゆっくりと起き上がり、とにかく驚いたように澄んだ緑色の瞳を大きく見開いて僕を見つめてくる。突然のことに無意識に潤んでしまった瞳がとても綺麗だった。

「な、何すんだよ、いきなり…!」

見下ろした僕の瞳と彼の瞳がぶつかり合う。絡んだ視線は決して甘いものではなく、しかし冷たく冷め切ったものでもなかった。
ようやく事態を把握したグリーンがキッと眉を吊り上げて大きく口を開いた。紡がれた言葉は反発するような、とても機嫌のいいものとは言えないもの。それはそうだろう。突然強い力で思いっきり押され、床に大きな音を立てて転がったのだから。床にはカーペットが敷いてあったとはいえ、痛かったに違いない。
自然と見下ろすような形で見つめながら開いた唇の隙間からは、小さな声で「別に」という言葉が出た。
無意識。彼を力いっぱい押したのも、見下ろしたのも、さっきの言葉も全て、本当に無意識だった。
僕の言葉にますます訳が分からないのか、顔を横に逸らして口をへの字に曲げながらブツブツと文句を言うグリーン。少し伏せた瞼の先に揃った僅かに震える長い睫毛もすごく綺麗で、思わず先程の瞳と一緒に手にとってしまいたい衝動に駆られた。
そんな衝動をぐっと押し殺すように掌にぐっと力を込め拳を握る。グリーンはもういつも通り、クッションの上に座り、胡坐をかく体制に戻っていた。
カチカチカチ、再び無機質なボタンを押す音が響く。グリーンを押す前と同じ音だった。

「ねぇ」
「…なんだよ」
「誰とメールしてんの」
「んー?ちょっとトレーナーと。今タマムシデパートにいるらしいんだけど、育成にはどれがオススメかって聞いてきてさ」
「…ふーん」

僕の表情が曇ったということを彼は、グリーンは、きっと知らないだろう。
グリーンは昔から僕とは違って人当たりのいい奴だった。だから、先輩には可愛がられ、後輩には慕われる、そんな人間だ。
僕自身もグリーンのそんなところが大好きだったし、すごくいいところだと思ってた。そう、確かに思っていたのだ。以前までは。

「……レッド?」

それがとてつもなく面白くないことへと変わったのはいつ頃だっただろうか。
ジムリーダーになったグリーンには以前よりも一層人が寄ってきた。ジムリーダー仲間、ポケモン連合関係者、ジムトレーナー、ジムに挑戦しにきたトレーナー、彼に憧れるファンの取り巻き達。グリーンの周りにはいつも人がいた。
周りの人間に囲まれて話すグリーンはとても楽しそうだった。屈託のない笑顔を振り巻き、親しげに彼らと話しながら、触れる。
僕はそんな彼を遠くから見ていた。
なんで僕だけを見てくれないの?僕は君だけを見ているのに、なんで。なんで。

「っ!」

カシャン、
そんな軽い音だけどどこか重量のあるプラスチックの音が耳に入った。僕の視界に入ったのは伸びた僕の白い指先の向こうにある、彼のポケギアだった。
ポケギアはカーペットからはみ出して硬いフローリングの床に滑っていった。勢い余ってくるくると数階回る深い緑色のポケギア。空になった手元からそれを奪われた彼は再びとにかく驚いたように目を丸くした。
声にならない声を詰まらせたようなグリーンは、漸く息を吹き返すようにゆっくりとか細く吐き出した。
叩き飛ばされたポケギアを取りに行こうとせず、それから目を逸らして僕を見る。困惑したように緊張した面持ちで眉を下げ、薄い笑みを浮かべる彼はどこかで見たような微妙な表情をしていた。

「…な、なんだよ。今日はやけに攻撃的なんじゃねぇの?」

冗談混じりに紡がれた声はほんの少しだけ、震えていた。
あぁ、どこかで見たことがあると思ったその微妙な表情は、この前母さんが見ていたサスペンスドラマで犯人に追い詰められた助演女優がしていたそれに似ているんだ。追い詰められて不安そうに、でもそれを見せたら負けだと言わんばかりに強がって浮かべる薄い笑み。その笑みを浮かべていることが何よりも怯えていることを示しているというのに。
しかし、それを必死に見せまい見せまいと隠した彼の分厚い仮面の口元は不格好に弧を描く。
違った。
その作られた笑みはいつも僕が見ている笑みと違った。

「……んで…?」
「え…?」

なんで君は僕にはそんな顔するの?
なんで君は僕にあの笑顔を見せてくれないの?
なんで君は僕といるのに他の奴と話すの?
なんで君は僕以外と話すの?
――なんで君は僕意外を見るの?

「……君は僕のものでしょ?」

気が付けば宙に浮きっぱなしの指先はグリーンの胸元の服をぐっと強く握り締めていた。
勿論、握りしめるだけではない。それは当然、彼の胸倉を掴みかかっているということになる。
ギリギリと力が入りすぎて震える指先。食い込むように服の皺の波間へと入り込んだ爪の先は赤く色付く。いつもの自分の指先からは想像できないくらい色付いたそれは、全然綺麗なものではなかった。
――僕はどうして、

「…わ、分かった…!分かったから落ち着けよ…!」

耳に入った声を拾い上げると目下でグリーンが悲痛な声を上げていた。先程までの余裕はすっかり消えてしまったようで、怯えきったように瞳を潤ませてこちらを見上げている。
時々ひゅっと喉を縮めてしゃくり上げるような音を小さく小さくあげる。緊張したせいか先程よりも息が細くなっていた。

「……分かってないよ」
「レッド…」
「分かってない」

僕がどれほど君を想っているか、
僕がどれほど君を好きか、
――僕が、

「…お願い…分かってよ…」

僕の情けないくらいか細い声はグリーンの胸の中に吸い込まれていった。
逆に僕が吸い込んだのは、いつもと同じ、グリーンの温かく優しい、甘い香り。




君が好きなものすべて嫌いになったら、君のことも嫌いになれるかな?
(他の誰かを見る君なんて嫌いだ)
(なんて嘯く僕を誰か止めて)





グリーンの周りにいるジムリーダー仲間、ポケモン連合関係者、ジムトレーナー、ジムに挑戦しにきたトレーナー、彼に憧れるファンの取り巻き達。
そんな人たちごと彼を愛せば、君の全てを愛せるのかな。
――いや、でもきっと僕は、

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