その日、家に帰ってきたのは夜空に星がキラキラと輝き外で歩く人間がパッと見渡せばすぐ数えられるくらいの、そんな時間帯であった。
我が家、といってもマサラにある実家ではなく、トキワで借りている小さなアパートだが、そこには数週間程前から居候と呼べる人物がいた。
「ただいまー…トウヤ?いないのか?」
もう外でも街灯が灯るくらいに暗いのだから室内はより一層暗い。それなのに鍵のかかっていない我が家には電気が灯っていなかった。不思議に思いながらリビングへどんどんと足を進めていく。彼が鍵をかけ忘れて出かけてしまったのだろうか、いや、しっかり者の彼にそのような凡ミスは無いだろう。
そうするとますます訳がわからない。返事も返ってこないし、寝室で寝てしまっているのだろうか。
遥か遠く離れたイッシュ地方から来たという男。そいつが俺の務めるトキワジムにやってきたのは今から大分前の話だ。
その男は俺もじいさんの持つ他地方の図鑑でチラリと見たポケモンをどんどん出してきて、ついには本でしか見たことのない伝説のポケモンまで出してきた。純白に纏う輝く毛並み、大きく放たれるオーラ、焼けてしまいそうなくらい熱い燃え盛る炎。それは俺の今までのポケモンバトルで経験したことのないプレッシャーだった。
何タイプか、何の技を使うのか未知の領域のポケモンに挑むのは至難の業だった。しかし、カントー最強と謳われるジムリーダーとして、そして一度はチャンピオンという座に就いた身として、易々と負けるわけにはいかなかった。素早く情報を察知し、認識してバトルをする。本当に、こんなバトルは初めてだった。
結果は惜しくも俺の敗北だった。込み上げる悔しさ、踏みにじられるプライド、その時の気分は数年前に体験したものと酷似していた。
そして、唇を噛み締める俺にその男は言ったのだ。
――グリーンさん、俺、…
その時の彼の瞳は、ぞくりとするくらい無機質だったのがすごく印象に残っている。
それからは本当に目まぐるしい早さで毎日が進んでいった。
イッシュから来たために各地のポケモンセンターを巡って寝泊りしている彼の身を心配して家に泊まりに来るように施し、毎日栄養のある飯を作ってやった。ポケモンセンターで他のトレーナーとシェアして暮らすのは得意でないという彼が気を使って疲れてはいけないから、ベッドも貸してやった。それでもやっぱり人間一人では到底生きていけない、だから気分転換になるように一緒に飯を食いながら沢山話した。
そんな日々を繰り返すうちにお互い惹かれていって、どちらかともなく寄り添って付き合い始めたのだ。
本当に、本当に幸せだった。好きな奴とずっと一緒にいるということがこんなにも幸せで、こんなにも温かいものだなんて。
素足で歩く度に廊下にぺたぺたと足音が響く。シンとした廊下にやけに大きく響いたその音は、今日に限ってなぜか恐怖心すら抱くようにも感じた。
不思議とやたら長いとまで感じてしまった廊下を経て着いたリビングは、未だレースのままのカーテンから漏れる外の外灯の明かりのおかげで廊下よりは仄かに明るいと感じられるものだった。
ぼんやりと薄明かりの中見えた目の前のソファーには人影が見える。あぁ、なんだ、やっぱりいたのか。居眠りでもしてしまっているのだろう。そうほっと胸を撫で下ろしてリビングの電気を付けた。
「おい、こんなところで寝てたら風邪…」
ポンと後ろから肩を軽く叩きながら前を覗き込んだ時だった。俺は言葉をひゅっと喉を鳴らして呑み込んだ。
「………おかえり」
俺の視界に飛び込んできたのは、鮮やかな程に流れこんだ、赤、赤、赤。
それは彼の手首辺りからだらだらと下に向かって垂れていた。手首から腕を伝い、肘に溜まってからぽたぽたと床に落ちていく。上品な薔薇の花びらが熟れてしまったようにバーガンディーに近い色の赤は、色の白い彼には驚くほどに似合っていた。
ゆっくりと俺のほうを振り返ってにやりとトウヤは笑った。その不敵な笑顔を見た瞬間、背筋が凍るほど冷たい何かが身体を支配し足元から湧き上がるようにガタガタと震え始めた。
逃げろ逃げろ逃げろ。脳がフル回転して伝達指令を送る。恋人である彼を見て逃げ出すのは恋人としてどうなのか、とか、血を流している彼を目の前にして人としてどうなのか、など、今は考える余裕などこれっぽっちもなかった。ただ、いつもと違う彼が怖くて、逃げなければいけないのだと無意識に緊急指令を取っていた。
しかし、身体はそれを拒否しているらしく、ガタガタと震える足は一向に動こうとしなかった。根でも張ったかのようにそこから一歩どころか一ミリも動けない。
俺が戸惑っている間に、その赤く色付かれた綺麗な指は俺の腕をしっかりと掴んでいた。
「今日遅かったね」
「え、あ、その…」
「グリーンさんが帰って来なかったから一人で遊んでたよ」
「な、何言っ」
「ねぇ、俺以外の奴に触られて嬉しかった?」
低い苛立ったような口調で言われた言葉は最初は全く意味が分からなかったが、脳内で一気にフラッシュバックされるように思い出される。そうだ、今日挑戦しにきたトレーナーを見送りに外に出たときに何故か肩を引き寄せられて…
「ちげーよ、あれ、は、っ…!」
「……言い訳なんていらない」
赤く染まってしまった腕を引き寄せて口を塞がれる。吐き出された言葉は驚くほどに冷たいものだった。
ぎりぎりと握る手に力が入れられ腕に指がくい込んでいく。爪も同時にくい込み、腕に痕を付けていることは明らかだった。それが痛くて堪らなくて悲鳴を上げたい気持ちにもなったが、ぱくりと口を開ければ即座にぬるりとした舌を挿れられ、敵わなかった。
熱い舌は俺の舌に絡められ、歯列を丁寧になぞり、舌の裏側に滑り込んで舐め上げる。そのまま上顎や咥内の手前を擽るように舐め犯されていく内に、相手の舌技や酸素不足により頭がぼーっとするのはいつものことであった。
しかし、やはりいつもと違う雰囲気の今日のトウヤはキスの仕方まで変わってしまっていた。
咥内を犯す舌の乱暴さに思わず目尻に溜まった涙がぽろりと零れ落ちる。涙というものは不思議なもので、一粒零してしまえば止まることを知らないようにどんどんと溢れ出していく。嗚咽により更に苦しくなる胸に、意識が朦朧とした。
「んっ…ふ、ぅ…っ」
「…なんで、泣くの?」
漸く解放された唇は、離される際にトウヤに噛まれてしまったせいで、仄かに鉄の味がした。
涙はずっと止まらない。まるでダムによって塞き止められた大量の水が人工的に流されてしまっているかのようだ。もしかしたら、涙は誰かの手によって再び塞き止められるまで止まらないのかもしれない。
涙で濡れた頬にトウヤの手が触れる。冷たくなったトウヤの手に付着した赤が頬にねっとりと付いて涙と一緒にぐちゃぐちゃになって流れていく。頬を伝って顎から落ちる際にはきっと真っ赤な涙が零れ落ちているのだろう、と妙な考えが脳内を巡る。そんなことは決してないのだろうけど。
「…泣きたいのは、俺のほうだよ」
今にも泣き出しそうな表情で掠れた声で紡がれた言葉は、ひどく残酷で胸をえぐられるような、そんな思いと一緒に飛び込んできた。
この歪なまでに捻じ曲がった想いを、俺は一体、どうすればいいのか。
俺の顎からは、やっぱり真っ赤な雫がぽたりぽたりと零れ落ちて、床を汚していった。
それでも愛と呼ぶのか
(真っ赤に染まった視界に)
(君しか映らないなんて)