本屋で用事を済ませた俺は、このまま帰宅しようか、それとも大学へ行こうか迷っていた。
右手には重みのあるビニール袋。左手にはいつもの勉強道具一式が詰まったフォルダを抱えている。
自宅へ帰ってもいいが、連日の試験勉強で身体がだるい。
今帰ったら眠ってしまうだろう、それではせっかく急いで取り寄せた参考書が勿体ない。
そう思った俺は大学へ足を運ぶことに決めた。
天気の良い日だった。
通りかかったコンビニの店内をウィンドウ越しに眺めると、見えた時計は午後四時を過ぎていた。
蒸し暑いこの季節でも、太陽が斜めになる頃になれば少しは快適なものだなと、俺はいささか感心する。
大学の敷地内へ入ると、思っていた通り学生の姿はまばらだ。
制服を着てつっ立っている用務員を通り過ぎ、図書館へと向かう。
その途中で、木陰のベンチの上に仰向けになって寝ている私服姿の若い男が目に入った。
顔の上に薄っぺらい教科書を開いたまま乗っけているが、地面すれすれの所にまでこぼれ落ちている長い金髪を見て、それが誰なのかを理解する。
ふいに強い風が吹き、奴の顔を覆っていた冊子がその速い流れに持っていかれてしまった。
そしてベンチから数歩離れた所に、パサッと軽い音を立てて落ちる。
『19世紀印象派の絵画を探る!』なんて書いてある。
「おい」
俺は冊子を拾い上げて、未だ寝っ転がったままのデイダラに短く声を掛けた。
すると奴の眉間にきゅっとしわが寄って、薄く開いた瞼から碧い双眸が覗いた。
「…うーん眩しい」
「眩しいじゃねぇ」
その呆けている顔の上にさっき拾った冊子を落としてやる。
奴はようやく話しかけているのが俺だと認識したらしい。
目に入る光を再び遮断したそれを片手で退けると、つり気味の両目を今度は完全に開き、一回ぱちくりと瞬きをした。
「旦那じゃん、土曜にまで学校に来て勉強かあ。真面目だなぁうん」
「てめーこそテスト前だっつのに、呑気なもんだな」
そう言ってやると奴はへらっと笑う。
「オイラはもういーの」
「いいって何がだよ」
「オイラは去年頑張ったから、もう進級要件満たしてんだ。うん」
確かにこの一年見てきた限りでは、デイダラの成績は良い方のようだった。
自由席が徹底されている大学の講義でも決まって前の方に座り、たまに教授に名指しで褒められると、横を振り向きニカッと前歯を見せる。
下手くそな字ではあったがいつもノートをびっちり取っており、二人一組での発表をしなければいけなくなった時も、万年成績トップの俺から誘ってやったくらいだ。
「でも今年の成績が悪かったらプラマイゼロじゃねーか」
「だーかーらー、オイラは成績なんかどうでもいいんだって」
「その割には勉強してたふうに見えたがな」
「んーでも、もう目標は達成したし。うん」
俺があからさまに呆れた表情を見せてやると、奴は持っていた教科書を腹の上に置いて両腕をふわふわと宙に振った。
また少し強めの風が吹き、ベンチに影を落としている大きな木がざわめく。
夏の日差しが頭上の葉の間から細やかに降り注ぐと、その場の空間が湖面のようにちらちらと輝いた。
「こうして旦那を手に入れた」
突然デイダラの上半身が起き上がると同時に、その両手は俺の顔を挟んで引き寄せキスをした。
急に前屈みにさせられた俺は重心が一気に顔に移り、血流を乱される。
「…てめぇ」
「はは、旦那は可愛いなー。そんな真っ赤になんなくても木の陰で誰も見えないよ。うん」
奴はいたずらっぽく笑うと、そのまま己の身体を地面にずるずると降ろした。
足腰を土の上に直接横たえて、ベンチを枕に天を仰ぐ。
背の低いベンチに乗っている頭から長い髪が流れ落ちて、毛先は堂々と砂を触っている。
どう考えても不潔だと思った。
「旦那も一緒に寝よー」
「ふざけんな。地面に寝っ転がってたまるか」
「気にすんなよ男だろ、うん」
俺は仕方なく、奴の頭の横に伸びる板を手ではたいてから、そこに腰掛けた。
斜め下を見やれば若干不満げな顔があったが、こいつにはつい押され気味になってしまう俺としては、この位置のほうが気分が落ち着く。
「…結局図書館行けなくなっちまったじゃねーか」
「行かなくていいよ。これ以上旦那の成績が上がったらオイラ追いつけない、うん」
「じゃあ俺はもっと勉強しねーとな」
「あ、ひでぇ旦那!オイラがどんだけ必死で旦那の隣確保したと思ってんの」
「んなの知るかよ」
むくれるデイダラをよそに、俺は緑の木々で覆い尽くされている真っ青なはずの空を見上げた。
「今夜オイラんち来てよな、うん」
「課題なら手伝わねーぞ」
夏の長い昼はまだ終わりそうになかったが、次第に涼しくなっていく風を感じながら、
(今日はもう参考書と睨めっこするのは面倒だな)と、ぼんやり考えた。
--- END ---