頻繁に見かけることはまずない、燃えるように真っ赤な髪の毛。いつも少し眠たげに思い眼を持ち上げるくっきりとした二重の瞳。スッと伸びた鼻筋に形のいい小ぶりな唇。そしてそれらを囲むシャープなラインを描いている輪郭。
それがオイラの先生。それがオイラの、好きな人。
「おい、クソガキ」
「うん?」
廊下で名前を呼び止められて振り向けば、そこにはオイラの想い人がいた。黒ブチ眼鏡をかけ、教科書やら資料のプリントやらを片手に持ち、白衣に身を包んでいる彼のスタイルはいつも通りだ。少し背が小さくて、童顔で、やる気のなさそうで愛想のない表情に、よれっとくたびれた白衣をいつも着ているが、それでも彼が生徒先生問わず校内で一番モテる人間なのだから、世の中やはり顔が全てなのだと思う。
彼が廊下を歩けば女子生徒が小さく声を上げ、男子生徒までも立ち止まって振り向く。彼が職員室にいるのならたちまち先生たちに囲まれる。彼が中庭で昼食を取っていると女子生徒が自慢の手料理を差し入れに行く。彼が屋上で昼寝などしようもんならみんなで写メの嵐だ。
まるで人形の如く綺麗で端整な顔。耳を溶かしてしまいそうな甘い声。それでいて、クールで自分からは決して人と接することもなく、相手に言い寄られても「興味ない」の一点張り。顔はこの上なくいいが、それでいて人をたらすことのない淡白な人として彼の人気は留まることをしらなかった。
しかし、オイラが彼に惚れたのは、断じて彼の顔がいいだとか彼の淡白なところがかっこいいからだとかそんな理由ではない。オイラが惚れたのは、彼のその芸術センス、基芸術にかける情熱であった。
教職の専門分野は化学であり、それを教えているにも関わらず、彼は美術部の顧問であった。前に彼に聞いてみたところ、彼は化学の教職免許を持っているが、学校は美術専門のほうを勉強していたとか美術は昔から好きで家系もみんな美術のほうに力を入れるものだったから自然と身についたと言っていたのを覚えている。
オイラは中学の頃から美術部に所属していた。しかし、所詮中学校の部活動、そんなに大それたことはせず、ただだらだらと絵を描いたりするだけであった。謂わば美術の授業の延長だ。勿論、そんなもので満足するオイラではない。オイラはもっと高みに登って、オイラの芸術をみんなに認めてもらって、もっと崇拝してほしい。オイラの芸術は間違っていない、オイラの芸術じゃ天才的だ、そう言われたかったのだ。
だから、高校では特に美術部に入りたいなんて思っていなかった。こんなところでお遊びのようにだらだらと絵を描いていたって作品を造ったって絶対に向上しない。それならば、自分で磨いて自分で登っていけばいいではないか。そう、思ってたのに。
この男との出会いでそんな考えは粉々に砕け散ってしまった。
入るつもりもなかったが一応覗いてみた美術部。そこでの光景はオイラの想像を遥かに越えるもので、思わず目を疑った。
芸術だ、これこそオイラが求めていた、芸術。
「お前この前今美術館でやってる特別展覧会行きたいっていってなかったか?」
「…あー、うん。でもオイラ今金ねぇんだ、だから今回は諦めるよ、うん」
「………5月5日」
「うん?」
「駅の前の時計台の下だ。遅れたらただじゃおかねぇぞ」
「え、ちょっと待ってくれよ、なんでその日なんだよ、うん」
「お子ちゃまなお前にはこどもの日がその日がお似合いだろ」
「え、まっ、旦那!」
そんな約束をほぼ強引にされ、そして、今日が約束の5月5日。
こどもの日だなんて言われたけれど、実はオイラにはそれよりももっと大切な日であった。当然、教えてもいない旦那がそれを知るわけがない。でも、それでもよかった、それでも今日この日を彼といれることが出来るなら、それだけで。
待ち合わせの時間は、午前11時。時計台の下に彼よりも先に着いて待っていなくては。
(…早く、着きすぎちまったな…うん)
そわそわと時計台の周りをうろつく。時間に煩い旦那のことだ、遅刻なんて有り得ないだろうし、時間よりも早くくることは間違いないだろう。
しかし、彼は待ち合わせの5分前になっても、待ち合わせの時間になっても、そして待ち合わせを10分過ぎても現れなかった。徐々に待ち人が来てここを去って行く人々の姿が見受けられ、人が減っていく。ざわざわとした人々の声がやけに遠く感じ、自分だけ孤立した疎外感を感じる。
嫌な考え、それが先程から頭をめぐり握った手にひんやりとした嫌な汗をかいた。考えてみればそうだ、自分と彼はあくまで先生と生徒の関係であり、それ以上でもそれ以下でもない。旦那からしたら自分の部活動内で唯一の芸術感を熱く深く語れる生徒であり、その生徒を暇だから連休に誘っただけだ。単なる気まぐれ、だから他にもっと大事な用事が出来たならそっちを優先するのも頷ける、当たり前のことだ。
思えば自分は彼の連絡先を一切知らなかった。そのことで分かりたくなくても現実を見てしまう。この想いは、オイラの一方通行なのだ。
待ち合わせ時間から30分近くなる。もう帰ってしまおう。あの男のことだ、明日学校で会ったら何食わぬ顔で少し癖のある赤い髪をかきながら「悪い、用事が出来ていけなかった」などと言うのだろう。
(…無駄な期待、しちまったじゃねーか)
深い溜息を着いて時計台の下を離れる。待ち合わせをしている他の奴らの邪魔にならないように、なるべく駅に隣接する壁側を伝って歩くことにした。
太陽が駅の裏側から照らす光。それは駅の建物に阻まれてオイラの歩いている道には届かなかった。建物の影になってしまったこの道は、まるでトボトボと歩くオイラの心の内を示しているようでより一層心を重くした。
「おい」
突如聞きなれた甘い声が頭上から降ってきたので、心と同じように項垂れ下を向いていた顔を上げるとそこには想像した通りの人物が立っていた。
いつも眠そうなやる気の無さそうな涼しげな表情をしている彼はいない。そこに立っている男はうっすらと汗をかき息を乱した余裕の全くない奴だった。
「…旦那?」
「…何約束すっぽかして勝手に帰ろうとしてるんだ、テメーは」
「ごめ……ってオイラ悪くないだろ!うん!?遅刻したのはアンタのほうじゃねーか!!」
「……まぁ、それは悪かった」
罰が悪そうに謝りながら目線を逸らして後頭部をくしゃくしゃとかく彼。落ち着いてよく見れば、いつも襟のボタンを開けたシャツにだらしなく閉められたネクタイ、その上によれよれの白衣を羽織っている彼からは想像も出来ないくらい今時のかっこいい服を着ていた。
着込まれた感の全くないその服はどこからどう見てもすべて新品で。全て新しく買ったにしてもやはり素晴らしい芸術作品を手がける人物だ、センスは最高によかった。
「旦那、結構オシャ…」
「おい、クソガキ」
「う、んっ…」
だからそんな彼を素直に褒めてあげようと思った。なのに、その言葉は目の前の男に吸い込まれていってしまった。旦那の、唇に。
壁側にいるオイラの顔を見えないように何かで隠しながら突然された口付け。それは突然すぎて一瞬、いや、今でも何が起こったのか分からなかった。なぜ、今ここで突然、彼からあんなことを。
「…今日は全部俺のおごってやる」
ぶっきら棒にオイラの胸元に押し付けられたのは赤いストックの大きな花束。花束としてはあまり見ないものだけど、沢山の花を付け心を優しく包み込まれるようなその花はまるで今日の旦那を表しているようで、とても温かくなった。
ストックの花束を抱えた腕を旦那に引かれ太陽に明るく照らされる道へ飛び出した。先を歩く旦那が少し振り向き今までに見たこともないような優しい微笑みを向け小さな声で「おめでとう」と言ってくれたこの瞬間を、オイラはずっと忘れないだろう。
キミに溺れて窒息死
(期待する胸を押さえているから)
(早く酸素をこの口に頂戴)
「なぁ、旦那」
「…なんだ、文句は言わせねぇぞ」
「いや、そうじゃなくて、うん」
「……さっさと言えよ、俺は待つのが嫌いなんだよ」
「………ベストから、値札出てるぜ、うん」
「……」
あぁ、そんなおちゃめなアンタも大好きだなんて、ホントに惚れた弱みなどというものはどうしようもない。