私は生まれつき、目が良い。
遠くの空でゆうるりと弧を描く鳥のたなびく尾まで鮮明に見える。お迎えに来た母親の車が幼稚園の部屋の中から見える。夜中でも電気を消した家の中でものにつまずくこともない。幼いころはこれが普通だと思っていた。
これが普通じゃないと気付いたのは、公園でひとりでブランコに乗っていたときだった。女の子が私の隣に座っていた。勇気を出して声をかけたが、返事はないしこちらを見向きもしない。ねえねえ、と言ったとき、ほかの子供の視線に気が付いた。あの子、誰もいないのに話しかけてる。こわぁい。あっちいこ。私は首をかしげた。みんな何言ってるんだろう、女の子はここにいるのに。私は女の子に手を伸ばした。しかし私の手は空を掴んだ。

みんなはかくれんぼで隠れた友達を見つけようと遊んでる。お化け屋敷で暗い通路を怖がっている。ぜんぶ見えるのに、どうして。どうして。私だけ、どうして。
みんなと同じものを見たいし、みんなと同じように見えなくなりたかった。親は視力が良くていいことだと言った。でも、見たくないものも見なくていいものも視てしまう。私は普通でよかったのに。私はこの目が嫌いだった。
中学生の頃から、分厚い牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけ始めた。前髪も、うんと伸ばして視界を遮った。視界はぼやけて途端に見え辛くなった。不便なこともあったが、”視えない”ことを体感できて嬉しかった。これでいい。みんなは私のその様子を気味悪がったり陰口したりしたが、気にする事はない。友達もできなかったけれど、それよりも私はもう、私にしか見えない景色なんて見たくなかったのだ。





「あ」

しまった。躓いた。と思う間もなく、腕に抱えていた書類の山はなす術もなく崩れ去った。通路を塞ぐように、廊下中に散らばったその書類は、日直が運ぶように言われていた今日締め切りの課題のプリント。拾い集めなくちゃ。眼鏡と前髪で視界を遮るようになってからは、躓いたりぶつかったりのドジが多くなってしまった。このスタイルにしたデメリット。気をつけなくては。

「あーあ。ちょっと、廊下通れないんだけど」
「あ…き、菊地原くん」

顔を上げれば、呆れたような視線の男子生徒だった。菊地原士郎君、同じクラスの人だ。迷惑になっている。慌ててかき集めるが、何しろ量が多いのだ。手こずっていると、菊地原くんがすたすたと歩いて距離を詰めてくるのがわかった。息が詰まる。邪魔だと怒るだろうか、早くしろと急かすだろうか。菊地原くんとまともに喋ったことはまだない。どんな人なのかもよくわからない。とにかく、謝らなければ。

「ご、ごめん、ね。邪魔でしょう。早く片付けるから…」
「本当に邪魔だよ。早く集めて」

そう言いながら、菊地原くんが腰を下ろした。プリントを一緒に拾ってくれているのだ。

「手伝ってくれるの…?」
「君が遅いから、仕方なくだよ。面倒くさいなあ」
「…あ、ありがとう…」
「…ぼーっとしてないで早く拾って」
「う、うん」

なんで僕がこんなことを、とか、面倒くさい、とか、文句を言いつつもてきぱきと拾ってくれて、全て集め終わるのに時間はかからなかった。なんだ、すごくいい人じゃないか。

「ありがとう。すごく、助かったよ」
「…君さあ、人より目が良いって本当?」

どっくん。心臓が跳ねた。どうして知ってるんだろう。三門市に引っ越してこの高校に入学してからは、ずっと黙っているし、知っている人はほとんどいないはずなのに。

「…なんで、それを…」
「君がこの前保健室の先生と話してたの聞こえてきただけ」
「…え…?」
「別に盗み聞きとかじゃないから。僕は人より"耳が良い"から」
「耳が良い?」
「君、ボーダーに入隊すれば?少しはその目を好きになれる、かもよ」

僕みたいに。
前髪の向こう、牛乳瓶の底のような分厚いレンズを通して見た菊地原くんは、ほんの少しだけ笑っている、ように見えた。



何かが始まるはずもなかった日


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