社畜根性 インパクトはあった |
「お疲れ様です」 「…………アァ?」 目の前に差し出された袋と、それを持つ人物を見上げた荒北は意味がわからない。という意味を込めて声を漏らす。 大会を終え、寮に戻ってきた荒北は一眠りしてから風呂場へと向かった。 結局完走することもなく、福富に文句さえ言えないまま終わってしまった大会に己の無力さと、理不尽な怒りを感じる。 荒北が風呂場へ行くと、先に入浴していたものは荒北を避けるようにしていたので、あからさまに顔に出ていたのだろう。 それに舌打ちをした荒北は風呂に浸かることもせず、早々に部屋に戻ってきた。 ビショビショに濡れたままの髪を乱暴に拭きながらベッドに腰掛ける。 あれだけやって、結果はリタイアだった。福富が言っていたてっぺんであるインターハイにはまるで手が届きそうにない。 そもそもルールも何も知らない荒北を突然レースに出すこと自体おかしいのだが、荒北にとってもうそんなことはさしたる問題ではなかった。 インターハイを目指すには今より努力しなくてはならないだろう。 荒北からしてみれば努力自体は苦ではない。けれど、今回目指すそれはとてつもなく遠い道のりだ。 それでも、アイツの鼻を明かすためにも、やらなければいけない。 髪を拭いていた手を止めて思考に耽っていた荒北は、自室の扉が開いた音を聞いてそちらへ目を向ける。 袋を片手に部屋に入る名前に荒北は向けていた目をそらした。 荒北が部屋にいて、そこに名前が入ってくるという図は珍しい。 いつもであれば名前が部屋でくつろいでいる時に練習と夕食を終えた荒北が入ってきて、すぐさま風呂に向かい、戻ってきたと思えば即就寝である。 名前の夕食と風呂の時間はバラバラだが、基本的に荒北が部屋にいないので名前が部屋に入るときには誰もいないのが常だった。 妙な気まずさに沈黙が流れる。 普段の練習の方が何倍も辛く、終わった時間が早かったのもあり、今日はまるで疲れていない。 眠気などまるでないに等しいのだが、ほとんど会話をしないルームメイトとどう過ごしたらいいかわからない。 ベッドで携帯でもいじっていようと体を横に倒そうとした瞬間、荒北の目の前まで来ていた名前は「荒北靖友さん」と荒北の名を呼んだ。 動かそうとした体を止めて、声の方を見上げる。 まっすぐ自分を見据えた瞳と目があった。 「お疲れ様です」 「…………アァ?」 いや、だから、お疲れ様です。 差し出した袋を一向に受け取ろうとしない荒北に名前は軽く袋を揺らした。 カサリと音を立てた袋は白いビニール袋で、中身はまるで見えない。 お疲れ様って、何が。 荒北がそう聞く前に、名前が察したかのように口を開く。 「ロードレース。出てましたよね?」 その言葉を聞いた荒北はあぁ。と一人納得する。 大会の最中、荒北は観客席に名前に似た姿を捉えていた。 それでも私服で見慣れない姿だったし、遠目だったのできちんとは判別できていなかった。 「なんか似たヤツいンな」ぐらいだったのだが、どうやらそれは本人だったようだ。 しかし、それとこれとなんの関係があるのか。 ただのルームメイトで、友達でもないだろうに。 差し出された袋を「いらねーヨ」と払いのけようとした荒北は、ふ、と思い立って手を止める。 今まで聞きそびれていた疑問を、ここで解決してしまおうと思った。 「オメーよォ、いつも夜、部室のドアに栄養ドリンク引っさげてンだろ」 「え、っと……」 ビクリと揺れた肩に、逸らされた視線。 想定済の反応に荒北は目を細める。 バレていないと思っていたのだろうか。 見ず知らずの人間が荒北へ差し入れをするとは考えにくい。 それに、するにしたって普通はスポーツドリンクか何かだろう。あえて栄養ドリンクをチョイスするあたり、当ててくれといわんばかりだ。 何も言わない荒北に、名前は気まずそうに口を開く。 「……なんでわかりました?」 「栄養ドリンク選ぶのなんてオメーくらいだヨ」 「……やっぱスポーツドリンクにしとくべきだったか」 小さく呟いた名前に荒北は「そーじゃねーだろ」と言葉を漏らす。 「毎回毎回丁寧にオレの名前書いた紙まで入れてヨォ。何がしたいワケェ?」 「あ、受け取ってはくれてたんですね」 「ウッセ。もったいねーだろーが。つかンでいちいち引っ掛けんだヨ。部屋一緒だろ。まどろっこしい事しやがって」 「いや、あれはこっちの都合って言いますか……」 「どーゆー意味だヨ」 「えーっと……その……」 名前はキョロキョロと視線を彷徨わせる。 荒北が聞きたかった疑問というのはこれだった。 理由がまるでわからなかったのだ。 差し入れの相手が名前ということはわかりきっていた。しかし、その理由が見当たらない。 名指しであることから人間違いではないことは確かだった。 ただ、お疲れの意味合いで渡しているのだったら今日のように手渡しをすればいい。 そうすればキッパリいらないと断れるのだ。 迷惑だとかそういったことではないのだが、よくも知らない相手から一方的に好意を渡され続けるのはスッキリしなかった。 名前からしてみれば好意も何もない、ほんとうに自身の都合での行動だったのだが、荒北がその発想にたどり着くわけがない。 何かを言いかけてはやめ、言いかけてはやめ、を繰り返す名前にいい加減荒北の我慢が頂点に達した頃、ようやく名前の口から音が発せられた。 「あの、怒りません?」 「いいから早く言えっつってんだろーがっ!」 「もう怒ってますよね。えっとですね、俺、名前覚えるの苦手なんです」 「ハァ?ンなことどーでもいいンだけどォ!?」 誰もオメーの苦手なコトなんか聞いてねーヨ! 怒りのまま声を荒げる荒北に名前は苦笑いを漏らす。 しかし、これでは先に進まないと感じた荒北は小さく舌打ちをすると続きを促した。 「だから、その、差し入れは荒北靖友さんの名前を覚えるついでっていうか」 「ついでェ?」 「だって、部屋に荒北靖友さんの名前が書いてある紙が貼ってあったり、荒北靖友さんのことを呼んでるわけでもないのに、俺が部屋で荒北靖友さんの名前呟いてたら怖くないですか?っていうか気持ち悪くないですか?」 「気持ち悪ィに決まってんだろ!っつか覚える必要ねーだろーが」 「いや、一応部屋一緒なんで、覚えておかないと何かと不便そうで」 「……だからオレのことずっとフルネームで呼んでるノォ?」 「あ、そうです。正解です」 こっちの都合ってそーゆーことかヨ。 あっけらかんと答える名前に荒北は大きくため息を吐いた。 しかし、もう一つの疑問も解決出来た。前々から気になっていたのだ。名前が荒北を呼ぶ際、必ずフルネームの理由が。 フルネームで呼ばれることなど早々ない。回数は少ないが、荒北は呼ばれる度に何か尋常じゃない違和感と、うざったさを感じていた。 まさかきちんと理由があってしているとは思わなかったが。 荒北はついでに、と敬語の理由も問いただすと「最初に話したとき敬語だったので、流れで」と返ってきた。 何なんだヨこいつ!と荒北は片手で頭をかきむしる。 とにかく、荒北としてはそのすべてをやめて欲しかった。 まどろっこしい差し入れも、違和感しかないフルネーム呼びも、気持ち悪い敬語も。 荒北が睨みつけるように名前を見上げる。 袋を持った手を体の横に下ろした名前は怯える様子もなく、荒北を見つめ返した。 「ソレ、全部やめろ」 「全部ってなんですか」 「差し入れとフルネームと敬語だヨ!きっもちわりーんだヨ!」 「え、困ります。敬語は別にいいですけど、名前はダメです。忘れます」 「忘れりゃいーだろーが!」 「何かあったときどうすればいいんだよ」 「何も起きねーヨ!」 「あ、じゃあ紙に書いて貼っておいていい?」 「いーわけネーだろ!バッカじゃナァイ!?」 「じゃあ無理」 「じゃあオメー何したら覚えんだヨ!」 「……インパクトあれば、たぶん、一発で覚えられる?」 聞かれた質問に「福富寿一」の前例を思い出した名前が首を傾げながら答える。 その返答に荒北は名前を押しのけて机へと走った。 ポカンと見つめる名前を気にせず、机から油性ペンを探し出した荒北はキャップを外しながら名前の目の前へ近付くとその肩を片手で掴み、もう片方で持ったペンの先を名前に服へと押し付ける。 そのまま勢いまかせにペンを動かし、ペン先が服の裾を通り過ぎたところでキャップを閉めた。 「ハイ荒北靖友ォ!これで忘れねーだろ!」 声高らかに叫んだ荒北に名前は自分の服を見下ろした。 名前の着ていた真っ白いTシャツにはデカデカと「荒北靖友」と書かれている。 なるほど、確かに忘れない。 しかし、いくらインパクトがあれば忘れないと言ってもこう書いてしまえば紙に書くのと変わらない。というか、よっぽど恥ずかしいんじゃないだろうか。 名前は服をそれほど持っていない。 寝巻きもこれを含め3着ほどしかないのだが、普段まったくと言っていいほど顔を合わせない荒北がそれを知る由もない。 「俺、これ着て寝るよ」と言おうとした名前はその口を噤ぐ。 代わりに「そうだね、忘れないかもしれない」と伝えると荒北は「かもじゃねーヨバァカ」と悪態をついてベッドへ潜り込み、カーテンを閉めた。 やっぱり俺のこと嫌いなんじゃないだろうか。 名前としては嫌われようと、居心地さえ悪くならなければ別にかまわないのだが、服を一枚ダメにされたのだ。 そのくらいの意地悪はいいだろう。 まぁ、顔を合わせることは滅多にないのでこのTシャツを着ていようと大した意地悪にもならない気もするが、自己満足の世界なので気にしない。 名前は手に持っている袋を荒北の机へと置く。 買ってしまったものだし、名前は荒北がさきほど「もったいねーだろ」と言っていたのを思い出し、置いておけば飲んでくれるだろう。と思ったのだ。 鳴り響いた着信に名前は携帯を開く。 「東堂」と映し出された着信画面を見た名前は時計を見て夕食の時間を確認すると、応答のボタンを押した。 |