社畜根性
嫌いじゃないの?
「……しんどいよなぁ」

名前は机の上に広げられた1枚だけの1000円札と、なにも入っていない財布を見つめてため息を漏らした。
夢だというのに妙にシビアなのか、お金がなくならない、とか、そういったことは一切なかった。
いや、お金自体は自動で増えるのだが、月一である。名前が高校時代にもらっていた小遣いと同じだけの金額が月初めに財布に入っている状態だ。
他人と同室ということもあって、前ほど漫画を買ってはいない。本来ならまだまだ余裕があるはずの財布の中身は、主に東堂と名前自身によって悲鳴をあげている。

名前が東堂に「一ヶ月ほど距離を置く」という宣言をした際に取り付けられた「日曜午後は遊びに行く」と約束は実行されていた。ただし毎週である。
高校時代、名前はインドア派で友達関係も薄く、同じような人種が集まっていたため、遊んだのは数回だったし、それも誰かの家でゲーム、というものだった。
しかし東堂の言う「遊ぼう!」とはいわゆる「ショッピングしよう!」的なノリだったらしく、毎週、計4回東堂と買い物に出ていた。
そうなると必然的に金を使わなければならない。名前が買い物しなくとも、交通費はかかるのだ。
それに加え、名前はあの日以来、荒北への差し入れを毎日行っていた。
理由は単純だ。忘れない為である。
元々記憶力が乏しく、興味がないことについては覚えない名前は、荒北の名を即答できない。
東堂とはほぼ毎日顔を合わせ、会話をするのでもはや忘れようもないのだが、荒北とは同室というだけで会話はない。
しかしいくら興味がないからと同室の人の名前を覚えないのは失礼だ。
結果として、名前はあの栄養ドリンクの差し入れと「荒北靖友さんへ」と書いた紙を、荒北が一人自主練をしている時間に部室の扉に引っかける行為を続けていた。
いまだバレていないらしく、名前が荒北に何か言われたことはない。
口に出すか、紙にかかないと忘れる。
けれど用もないのに荒北の名を呼んでいたら不信だし、紙に書いていて見つかった場合、気持ち悪いと思われるのは必然だ。
会話しなくとも一日の半分を同じ部屋で過ごしている。
恨みがあるわけでもないため、荒北に不快な思いをさせるのは本意ではなかったし、居心地を悪くはしたくない。
そのせいで名前の財布の中は悲しい現実を見せつけているわけだが、ほぼほぼ自業自得なので名前は今こうして苦悶に顔を歪めていた。
もうすぐ宣言の一ヶ月も終わり、東堂との買い物もしなくなるだろうが、荒北への差し入れを考えたら若干プラスになる程度だろう。
どうするべきかと頭を悩ませているとガチャっと扉の開く音が聞こえた。
名前は財布を見つめたまま口を開く。

「おかえり」
「…………」

一拍置いて、自分が発した言葉が単語として脳にたどり着いた名前は勢いよく扉の方へ顔を向けた。
風呂上りであろう、髪から雫を滴らせて、タオルを片手に呆然とこちらを見つめる荒北と目が合う。
やってしまった。
意識が今後のお金の使用状況へと集中していた名前はここが寮の部屋だということを完全に忘れていた。
いつもであれば荒北が戻ってきても何も言わない名前だが、すっかり自宅の気分だった名前は反射のように挨拶してしまった。
気まずい沈黙が流れる。
お互い微動だにしないまま、言い訳をしなければと名前が口を開こうとした。
しかし、名前が言葉を発するより先に荒北が行動を起こす。

「……ただいまァ」

そう言ってベッドへ潜り込み、カーテンを閉めた荒北に、名前の口は開いたまま動かなかった。
キモイとか思われてんじゃねぇかな。とか、なんだこいつって思ってんのかな。等が浮かぶより先に名前の頭は驚きで溢れていた。
名前は荒北に嫌われていると思っていた。
初対面では何もなかったものの、荒北が髪を切った際には「誰ですか」と聞いて怒られたし、購買に案内された時も不機嫌だったのだ。
あれ以来会話はなかったが名前が覚えている限りで荒北が威圧してこなかったことなどなかった。
だから怒るでもなく、無視されるでもなく、普通に返事をされたことに驚きを隠せない。
しばらく固まっていた名前だが、震えた携帯に意識が戻る。
メールの受信を知らせるそれを開くと差出人は東堂からだった。
「もう風呂は入ったか?暖かくなってきたからといって夜はまだ冷える。シャワーで済ませるようでは…」と続く文を読んで名前は自分が風呂に入っていないことに気がついた。
1000円札を財布へとしまって、着替えと携帯、それに風呂用具一式を持って部屋を出る。
そのまま風呂場へは向かわず、東堂へメールをすると読んですぐ駆けつけたであろう東堂が名前と同じような装備で走ってきた。

「なんだなんだ!一緒に風呂に行こうなどと珍しいな!実は俺はもう風呂には入ったんだがな!一緒に入ってやってもいいぞ!」
「うん、ありがと、ちょっと東堂の話を聞きたくなって」
「ワハハ!どうしたのだ急に!いいぞ!なんでも話そう!そうだな、まずはこの俺の輝かしいロードのデビュー戦を話してやろう、あれは俺が…」

嬉しそうにヒョコヒョコと横を歩く東堂を眺める。
あ、うん、そうそう、普通だよな、普通。いつも通りは安心するわ。
驚きを消化しきれない名前はいつもどおりの東堂の話をBGMに、荒北について考えを巡らせた。