「咲様、お召し替えに参りました」
「はい」
屋敷で待っていると女中が部屋に訪れた。
今日は早くも竹中半兵衛との祝言の日だ。好きでもない男と、嘘っぱちの偽りの夫婦だというのに祝言まであげなくてはいけないのだ。
朝からため息しか出ない。
「お綺麗ですよ」
女中達に重ねられるように着付けられ、長い黒髪をまとめ上げ、肌には白粉、唇には紅がすっと塗られた。女中が持つ鏡に自分の姿が写る、そこには白無垢姿で真っ直ぐに座る己の姿があった。
忍びの私が白無垢を着る日が来ようとは……闇に紛れ込んでいた頃は想像も付かなかった事だ。似合う似合わないとかいうのはさておき、まさか白無垢姿の自分を見る事になろうとは
「(しかも、好きでもない男と祝言だなんて)」
白無垢姿を見せる相手が、あの竹中半兵衛だ。
北条の首を条件に私を捕らえ、何の間違いか私を豊臣に引き入れた。“豊臣に忠誠を誓い、豊臣と共に竹中半兵衛のそばで生きる事”だなんて勝手な契約をし、私を忍びとしてではなく自身の妻として身を置かせた。
「(私……どうして忍び装束じゃなくて白無垢を着ているんだろう)」
いっそ重苦しい白無垢など脱ぎ捨てて、この豊臣から飛び出してしまおうか?今すぐ忍びとして生きるなど容易だ、再び常闇に紛れれば良いだけだ。
「咲様、そろそろ」
「はい」
花嫁は遅れて行く、という事なので女中達を連れ添い祝言の場へと向かった。竹中半兵衛という男は豊臣の中でもやはり地位の高い軍師らしく、祝言の場には多くの武将が集まっているらしい。
今からあの武将達の前に出ないといけないのか……ああ、反吐が出る。竹中半兵衛の妻として祝言を迎えて、見知らぬ武将達に笑顔を向けて、ただ見せ物の人形のようにじろじろと見られる。
「……うんざりするわ」
「咲様?」
「いいえ……参りましょう」
女中に声をかけ、祝言の場へと向かった。
周りの視線を痛く受け止めながら座敷に着くと、既に祝言の服を着た竹中半兵衛が着席していた。いつもの仮面は付けておらず、竹中の家紋が入った紋付き羽織袴姿のようだ。竹中半兵衛は私の姿に気付くと、一瞬驚いた表情をして、ふっと笑ったような気がした。
女中に案内され、竹中半兵衛の隣に座った。
「(早く終わらないかしら)」
目の前には、私を見定めるような視線がいくつもあった。竹中半兵衛の妻となる者が珍しいのだろうか?それにしても鬱陶しい視線だ、嫌気が顔に出ないように、少し下を向いた。顔さえ見えなければいい、ずっと見定められるのも気分の良いものではない。
ひとつの盃で互いに飲み交わし、それを三度重ねた。偽りとはいえ竹中半兵衛と生涯を契る事になろうとは……酒と盃で生涯を契る三三九度は、当人同士の決意をとあるが、私の決意など嘘っぱちのものだ。
愛情など微塵もない、偽りのものだ。
盃を重ね、最後の一滴を飲み干したが、私の決意など何も変わらない。私は竹中半兵衛の妻などでは無い、忍びの咲だ。妻として生きる一生の覚悟もない。竹中半兵衛が消えればお役御免だ、そこで竹中半兵衛と交わした契約も終了。それまで豊臣に身を置くだけの事、この盃も偽物だ。
いや、本物など何一つとしてない。
「咲」
「……はい」
祝言も終盤、
隣にいる竹中半兵衛に話しかけられた。
「僕の妻として、これからもよろしく頼む」
「……承知致しました」
「それと」
「?」
「綺麗だよ」
「!」
偽りだというのに、この男はとても嬉しそうに微笑んだ。どうして?私は妻ではない、妻を演じているだけの偽物だ。想いなど通ってはいない、通じるものはない。病に冒されている男の死を待っているだけの……忍びだ。
私は何でもない、ただの忍びだ。
「竹中半兵衛」
「何だい?」
「今この時は、貴方の妻として生涯を共にすると誓いましょう」
前を真っ直ぐ向いて、竹中半兵衛にしか聞こえない声でそう言った。
「……咲、ありがとう」
「……」
祝言を事務的に終わらせ、花嫁である私は早々と場を退場した。きっとこれから座敷で男達が祝いの酒を交わし合う事だろう、女は必要ない。祝言といえど、終わってしまえばただの酒のつまみ話になるだけだ。
生涯の誓いなど、何も残らない。
「咲様」
「はぁ……やっと終わったわね、これをお願い」
「は、はい」
屋敷に戻り、着ていた白無垢を脱ぎ捨てた。女中は代わりの着物を私に着せ、脱ぎ捨てられた白無垢を片付けていた。着物に着替えた私は、ふと鏡を見た。祝言用に塗られた紅がとても目立っていた。
ああ、この顔は私じゃないな……
手の甲で、唇についた紅をこすり落とした。それを見ていた女中は慌てた様子で布で私の手についた紅を拭った。
「咲様、唇が、動かないで下さいまし」
「……」
世話好きな女中は、紅が少し落ちた私の唇までも綺麗にし始めた。私なんかにそんな事をしなくても良いのに、私が竹中半兵衛の妻だからか、嘘っぱちの私はこの女中までも欺いているのか……と、女中を見る目を細めた。
祝言の場とは打って変わり、いつもの装いに代わり、ようやく腰を下ろせる。
「咲様、お疲れ様にございました」
「……女はただの見せ物ね」
「祝言というのはそういうものでございます、しかし、生涯と共に生きる誓いというのは……とても大事なのでございますよ」
「誓い、ね」
「咲様、祝言は無事終わりましたがまだ夫婦としてのお勤めは終わっておりませぬ」
「ん?お勤めって?」
のんびり座りながら窓から外を見ていたが、女中の言葉に疑問を持ち、外から女中の方へと視線を変えた。女中と目が合うと、女中はにっこりと笑顔を見せ「湯に参りましょう」と言った。祝言がようやく終わったのに、何故に湯に行かなくてはいけないのか。
「……今日はもうゆっくり休みたいのだけど」
「そうはいきません、それに休めるかどうかは竹中様次第にございますよ」
「どういう事……」
「咲様、祝言が終わった今、残っている事といえば一つだけでしょう」
「……」
ああ、そうか……忘れていた。
「というわけで、湯へ参りましょう」
「……今日は体調が」
「竹中様に恥をかかせてはいけませんよ。大丈夫です、おなごは皆は必ず通る道です」
「いや、でも」
竹中半兵衛と初夜を迎えるなんて
それだけは絶対にできない!
「大丈夫ですよ、竹中様ならきっとお優しく……うふふ」
「想像したくないわ」
よりにもよって竹中半兵衛が相手だなんて、いや誰であっても嫌だけど、偽りの夫婦を演じているけれど、体を交えるなんてとんでもない。女中は女中でなんだか頬を染めているし、代わってくれるならどうぞ代わって欲しい。
竹中半兵衛と共に寝るなど、豊臣に来て一度もない。屋敷は同じでも部屋は別だ、それに竹中半兵衛は私に多くは望まないと言っていた。
そばに居てくれるだけでいいと
「咲様、お湯加減どうですか?」
「……丁度いい」
「それは良かったです」
湯に入りながら、私は焦っていた。
どうやって初夜を回避する?湯から上がったらすぐに豊臣から逃げ出してしまおうか、しかし初夜が嫌で豊臣から逃げ出したなど恥ずかし過ぎるではないか。もし風魔や佐助の耳に入れば、忍びとしてそれどうなのかと笑われてしまいそうだ。
こうなったら、竹中半兵衛を手刀で眠らせて一晩程眠っていて貰うしかない、とりあえずはそれで今日は回避が出来るかもしれない。
「お着物です」
相変わらず女中はにこにことしている。
さぁ行きましょう、と女中に連れられたのは屋敷の奥にある部屋だった。物が少なく、部屋の真ん中に布団が敷かれているくらいだった。女中が灯したろうそくの火が、部屋の中を朧げに照らしていた。「では失礼致します」と、立ち去った女中は最後まで頬を染めていた。
「はぁ……」
部屋に残された私はどうしたものかと考えた。
このまま逃げるか、竹中半兵衛を気絶させるか。考えられる選択肢は少なくて2つ、考えようによっては逃げ道はいくつかあるかもしれない、しかし事は穏便に済ませたい。
さて、どうしようか。
とりあえず布団の上に座って考えた。解決策をいくつか考えているうちに足音が聞こえた。まだその足音は遠いが、ゆっくりとこちらに向かっていると分かった。きっとこの足音は竹中半兵衛のものだろう。このまま此処に来なかったらいいのにな、なんて思っていたがその想いは届かなかったらしい。近付いてくる足音に、思わず背筋がピンとした。
ゆっくりと開かれる襖を凝視した
「……おや」
部屋に入ってきた竹中半兵衛は、部屋にいる私を見るなり驚いた顔をしていた。そして夜着の着物姿に着替えている竹中半兵衛はそのまま布団の上に、私の前に戸惑う事なく座った。
「その顔は何かしら?」
「いや……君がいるとは思わなかった、流石の君でも今の状況を分かっているだろう?」
「逃げ出した方が良かったかしら?」
「……いや」
竹中半兵衛はそう言って、私との距離を縮めてきた。私は動こうとはせず、ただ竹中半兵衛を見つめていた。薄暗いこの部屋に、灯りはろうそくの火のみ、そして目の前には憂げな竹中半兵衛。
竹中半兵衛の手は、私の頬を撫でるように触れた。
「……逃げないのかい?」
「逃げないわ」
「このままだと、どうなるか分かっているだろう?」
「そうね」
「……」
「私は貴方のものにはならないわ」
「いくら手を伸ばしても、君は……そうか」
「!」
竹中半兵衛は、私を押し倒した。
布団の上に仰向けに倒れた私は、天井を見上げながら竹中半兵衛と見つめ合い、薄紫色の瞳は、じっと私を写していた。
「……咲」
「……」
竹中半兵衛の手が、すっと私に向かってきた。
覚悟を決めるしかないか、そう思ったが
竹中半兵衛の手は私の前髪を上げて、私の額に口付けた。そして、くすっと笑い笑顔を見せた。
「大丈夫、安心して。君を抱く事はしないよ」
「……なぜ」
「僕は君の体が欲しいわけじゃない、君の心が欲しいんだ。今ここで君を抱いたとしても、君は僕を想ってはくれないだろう」
「……そうね」
「君は、相変わらずだ……いや、分かってはいたんだ。無理矢理に君を妻にして、そんな事をしても僕のものにはならないと」
「……」
「けど……それでも君にそばに居て欲しいんだ」
「……」
「どうか……もう暫くだけ、僕の我儘を聞いて欲しい」
寂しそうにそう言った竹中半兵衛に、私は気付けば手を伸ばしていた。泣いているように見えたが、竹中半兵衛の頬を触ってもそこに涙はなかった。
「……咲?」
「泣いているように見えたの」
「ふふ、僕は泣かないさ」
「……」
「大丈夫、ありがとう」
「お礼を言われるような事、していないわ」
「……そうか、なら一つお願いをしていいかい?」
「私が出来る事なら」
「今日は、共に寝てくれないか」
「……」
目を細めて竹中半兵衛を見ると「手は出さないよ」と、言葉を足して言ってきた。まぁ、寝るだけならいいか……と、頷くと「ありがとう」と返ってきた。
布団の中で共に寝るなど、いつぶりだろうか。
まさか竹中半兵衛と共に寝る事になるとは
熟睡など、出来るはずもない