「……咲?」
咲に用事があったので久しぶりに屋敷に戻ってみたが、咲は部屋にはおらず、部屋どころか屋敷に咲の姿は何処にもなかった。もしか逃げ出したのでは?と悪い予感がしたが、近くにいた女中に咲も居場所を聞くと「外の書庫に行くと言っておりましたよ」と答えてくれたので安心した。
そういえば、咲が退屈だと言っていたので書庫に行ってみてはどうかと僕が咲に勧めたんだった。しかし書庫にいるなんて咲は勉強家なのか、それとも退屈なだけなのか、ひとまず書庫へと向かった。
咲に用事というのは、祝言を行う日取りが決まったので伝えに来た。というものだ、正直なところ咲と祝言を挙げる予定は全く無かった。豊臣での立場上、竹中半兵衛の妻として身を置いてはいるが、公の前で咲を見せる事は避けていた。咲の正体が忍びだと分かれば、すぐにでも処されてしまう可能性がある。そうはさせないようにするつもりだが、元より目立った事をしないでおくのが一番良い。
「(しかし、三成君が用意したとなると断れない)」
僕の為に祝言を用意してくれた三成君に、祝言をしない理由を考えるのも面倒だ。ならいっそ祝言をしてしまった方が楽かもしれない。
咲はどう思うだろうか?好きでもない男と祝言を……契約上の関係だとしても、祝言をするのは嫌がるかもしれない。僕の妻として公の場に出されるんだ、いつものように咲は「好きでも無い男と祝言だなんて拷問ね」と毒を吐くだろうか?
相変わらず、咲は僕に懐かない。いや……僕は彼女に嫌われて当然の事をしたんだ、仕方ないか。それでも一緒に、ずっと僕のそばに居てくれるだけでもいい。
書の保管庫となっているこの書庫にはあまり立ち寄る事がない、久しぶりに訪れてみると書庫の扉が半分開いているのが見えた。どうやら誰かいるらしい、まぁきっとそれは咲だろうけど。
半分開いた扉から、書庫の中へと入った。
此処は随分と埃っぽかった覚えがあるが、書庫の中は思いの外、綺麗に掃除されているようだった。
「(咲は何処だろう)」
書庫の中に入ると、何処からか話し声が聞こえた。てっきり中には咲がいるのかと思ったが、聞こえて来たのは男の低い声だった。
しかしよく聞くと、咲の声も聞こえた。
声がする方にこっそり近付いてみると、咲ともう一人の人物の姿を見つけた。無言で近付いてみたが、咲はすぐに此方に気付いたようだった。
流石忍び、気配の察知が早いね。
咲は、書庫に入ってきた僕の方を向いて「あ」と声を出した。
「やぁ、珍しい組み合わせだね」
「竹中半兵衛」
「そろそろ、その呼び方はやめないか?」
「……」
無言になってしまった咲に困ったが、咲の隣にいる人物へと視線を向けた。
まさか咲と君が一緒にいるとは思わなかったよ、どうして君が咲の隣にいるんだろうね?是非とも理由を教えて欲しいところだよ。
ねえ?
……大谷君?
「賢人か」
「やぁ大谷君、奇遇だね」
「ぬしが久しく此処に来るとは、珍しや……探しモノでもしておるのか」
「探しモノか、うん、でも見つかったよ」
「? 左様か」
「咲、随分と大谷君と仲良さそうに話していたね、一体いつの間に知り合ったんだい?」
再び咲の方を見ると、「え」という表情をしていた。その表情の意味が分からない竹中半兵衛は「ん?」と首を傾げた。隣にいる大谷君といつ知り合ったのか聞いただけだ、何もおかしな事は聞いていない。
「大谷君?え、大谷?」
「大谷君だろう?君の隣にいるじゃないか」
「え、大谷……大谷吉継!?」
「まさか……知らずに一緒に居たのかい?」
「ヒヒッ」
咲は一緒にいる人物が大谷吉継とは知らなかったようだ。なるほど……大谷君の事だ、咲に自分の名前を名乗らなかったのだろう。流石に咲も豊臣の大谷吉継の事は知っているはずだが、自分の隣にいるのが大谷吉継本人だとは気付かなかったようだ。
「え……本物?」
「ヒヒッ左様、われは大谷吉継よ。われの事を知らぬなど珍しい女中がいるものかと思ったが、はて?賢人の知り合いであったか?」
「大谷君、咲は女中ではないよ」
「ヒヒッ、では何か?ついに賢人が女を娶ったと?それはそれは、星が降り落ちそうな事よな……あり得はせん」
「全く失礼な言い方だね、婚期がなくて悪かったね。僕は結婚が出来ないんじゃない、結婚しなかったんだよ」
婚姻の話はいくつかあったが、豊臣での仕事が忙しく、いくつかは断っていた。そして、いつの間にか気付けば病に冒された。しかし独り身でも特に支障はなく、今さら妻など必要ないと思っていた。
しかし、今は偽りの関係だが僕のそばには咲がいる。愛し合ってなどいないが、僕は咲に隣を歩いて欲しいと思っている。偽りでも良いんだ、どうか僕の妻として演じて欲しい。
君だけは、そばに居て欲しい。
「さて、咲。随分と書物に熱心な様子だけど、満足頂けたのかな」
「そうね、此処は兵法書が多くあるし私の知り得ない情報が多いわ。それに白い頭巾のお方が丁寧に教えて下さったし、此処は退屈しないで良いわね」
「……そうか、大谷君が。礼を言う」
「はて?何のコトか」
「僕が咲に教えてあげられたら良いんだけど、あいにく時間がね……ああ、そうだ咲」
「何かしら」
「僕と君の、祝言の日取りが決まったそうだ」
その事を咲に伝えると、大谷君が「!?」と目を丸くさせていた。そういえば大谷君に咲が僕の妻だということを伝えていなかった気がする。
「……賢人よ、この娘はぬしの妻となるのか」
「そうだよ。名前は咲、僕の妻だ」
咲の肩を抱くように手を置くと、大谷君は「星の巡り合わせか……」と呟いた。どうやら僕に妻がいるというのは、大谷君の中ではあり得ない事だと思っていたらしい。まぁ妻は必要ないと公言したのは僕だったからね、そう思われるのも仕方ない。
肩に手を置かれたのが嫌だったのか、咲にするりと逃げられてしまった。そして僕に触れられないように一歩下がった咲は、「祝言?」と聞き直していた。
「ああ、三成君が用意してくれたようだよ」
「……そう、祝言ね」
「すまない、祝言をするつもりはなかったんだけど、断る理由もなくてね」
「構わないわ、人形のように座っていれば良いのでしょう?祝言の作法は心得ているから大丈夫よ」
「そうか、すまないがよろしく頼む」
僕と咲の会話を聞いていた大谷君が「ぬしらにとって不要な祝言のようだなァ」と呟いていた。偽りの夫婦なのだから祝言がそれほど必要なものではない、大谷君にそう言うわけにもいかず、「そんな事ないよ」と答えるしかなかった。
咲の方を見れば、再び兵法書を読んでいるようだ。夫である僕が隣にいるというのにとんでもない根性だ。
「そういえば、二人は随分と仲が良さそうだったね、咲が大谷君と一緒にいるだなんて見間違いかと思ったよ」
「ヒヒッ、妙に兵法を興ずる者がいるかと思えば賢人の奥方殿とは……戦術でも叩き込んで軍師にでも使えるかと思うたが、奥方殿あればそれも出来ぬ事よなァ……いや、ザンネン」
「ん?大谷君に教えて貰っていたのかい?」
あの咲が他人に、しかも豊臣の者に教えを乞うとは、意外にも勤勉で一意専心なよころがあるようだ。忍びといえば隠密や暗殺、雇い主に忠実な見えない駒かと思っていたが、こうしてみると咲は忍びの中でも群を抜いて頭が良いらしい。最初こそは咲の見た目に惹かれたが、さらに頭の良い女性であるとするのならば、ますます君に惹かれてしまいそうだ。
咲を見れば、何?という顔で見られてしまった。やはり彼女は僕に、特別な感情は無いらしい。
「君が教えを乞うなんて珍しいなと思ってね」
「そうかしら、聡明な人は好きなの。私の知らない事をたくさん知っている人とかね」
「……聡明、か」
咲の口から「好き」という言葉を聞くとは思わなかった。彼女の言葉を鵜呑みにすると、それは君が大谷君の事が好きだという訳になってしまうが、まさかそんなことには……と、胸にちくりと痛みを感じながら首を小さく振った。
「咲、あまり遅くならないようにね」
そう言って書庫を後にした。
忍びの咲に言う台詞ではない事は分かっていたが、今は僕の妻として此処にいるんだ。夫らしく、咲の心配をしたいじゃないか。例え、偽りの夫婦だったとしても咲は僕のものだ。
逃がすつもりもないし、
誰かに渡すつもりもない。