積もった雪も、この地ではすぐに溶けてしまい、それを少し残念に思いながら城内を歩いていると、廊下の向こうから見覚えのある銀色が見えた。
「半兵衛様?」
「やぁ、葵。こんな所で会うなんて奇遇だね。誰かに用でもあったのかい?」
「はい、軍医様の所へ。半兵衛様は体調にお変わりはありませんか?」
「ああ、随分と良い。そうだ葵、もし時間があるなら僕の部屋に来ないかい? 久しぶりに君とゆっくり話がしたい」
「構いませんが、お仕事の邪魔になりませんか?」
「手を休めたいと思っていた所だ、最近ずっと筆を握っていたせいか腕が痛いよ」
「ならば是非とも休息をお取り下さい」
半兵衛様のご好意により、彼のお部屋にお邪魔させて貰う事になった。お部屋といっても自室ではなく執務室だが、大谷様の執務室とは違いとても綺麗に片付いていた。
「どうかしたかい?」
「いえ、半兵衛様はお部屋を随分とお綺麗になさってるんですね」
「物が少ないだけだよ、ああ……そういえば大谷君の仕事部屋はいつも物が多かったね、まぁ彼の場合は仕事の量と仕事の範囲が広いから仕方ないんだけど」
「そうだとしても、大谷様の執務室は些か物が多過ぎます」
城内にある大谷様の執務室には、巻物や書庫から持ち出した兵書が積み上がっていたり、何故かいつも数珠が転がっていたりとお世辞にも綺麗な部屋とは言えない。
しかし何故か、屋敷にある離れの自室には物が驚くほどに少なく、いつも綺麗に片付いている。不在の際にお掃除させて貰っていますがすぐに終わってしまいます。
「もし可能ならば、一度大谷様の執務室の片付けをしたいものです」
「はは、彼はきっとそれを拒むだろうね」
「はい、大谷様は執務室を私に片付けられる……というより私が執務室の物に触れる事自体、快くは思っていません。以前、執務室を片付けようとしたら「触るな」と言われてしまいました」
ですので私が大谷様の執務室にいる時は部屋の隅にいるしかないのです。大谷様を怒らせたくはありません。けど部屋の片付けがしたくてうずうずしているのは内緒です。
「しかしこうして君と話が出来るのはとても嬉しいね、ずっと大阪に居てくれると嬉しい、もう何処にもいかないでくれ」
「いけませんよ半兵衛様、私のような者にそのように仰らないで下さい。私はただの雇われ女中に過ぎません」
「それでも僕は君を特別視するよ、君には不自由なく生きて欲しい、君に危険があれば僕はすぐに君を守ろう」
「半兵衛様にお守り頂くなどッ、この身は自分で守ります、それに私はもう一度みなさんと戦いたいのです」
「しかし君は婆娑羅を失ったと聞く、あの闇の力はもう使えなくなってしまったんだろう?」
「……申し訳御座いません」
「責めているわけではないよ、どうかこれからは僕達に守らせてくれないかい?」
「ですが」
「そんなに僕達では頼りないかい?」
「そんな事はありません! 半兵衛様はとてもお強い方にございます、私のような力よりもずっと」
「ならば、お願いだ葵。僕達に君を守らせて欲しい」
「……。」
「君がそう簡単に頷くとは思っていない、けど君を守りたいと思う者達が少なからずいるということだけでも覚えていて欲しい。」
「!」
真っ直ぐと、半兵衛様は私の目を見て言った。命令でも頼みでもない、半兵衛様からのお願いだ。左近さんも私に「甘えてみてもいい」と言ってくれた。
「半兵衛様」
「ん?」
「私は、甘えてもいいのでしょうか?半兵衛や大谷様、三成様や左近さん達に甘えてもいいのでしょうか」
「甘えてくれるのかい? それは男として嬉しい限りだ。僕は是非とも葵に甘えられたいし、頼られたいものだよ」
「!」
「嬉しい」と言った半兵衛様は私に微笑んでいた。まさか「嬉しい」なんて言われるとは思っていなかった。
以前のような力が使えなくなってしまった私に、左近さんは「甘えていい」と言ってくれた。半兵衛様は「頼っていい」と言ってくれた。
「私は、とても幸せ者ですね……」
こんなに嬉しい事があっても良いのだろうか?思わず口元が緩んでしまう。
「葵は昔から色々と背負い過ぎているようだね」
「自覚はありませんが、そうなのでしょうか」
「君は独りじゃない、側には僕や大谷君がいる。いや、きっと葵の周りにはたくさんの仲間がいる。背負い続けているモノを軽くしよう、君の生き方はきっと他にもあるだろう」
「半兵衛様」
……仲間、
私には仲間がいる。
なんとも力強い仲間達が近くに、
「大谷君もきっと、葵の為なら動いてくれるだろう」
「大谷様が、ですか? あの方は見ているだけで、私の為になんか……」
「もし大谷君の元で働くのが嫌になったらいつでも僕の所においで」
「嫌になんて、ありえません」
「もし、だよ。僕ならすぐになんとかしてあげられる。僕の付き人になってもいいし、なんなら家に入ってもいい」
「家?」
「竹中家に養子に来てもいいし、ああそうだ僕の側室になるかい? そうすれば君の人生は安泰だ」
「そ、側室……?」
まさか側室になってもいいと言われるとは思わなかった。どうして半兵衛様は私のような者にこうも良くしてくれるのだろうか。
「……困りました」
「ん?」
「私の周りには、どうしようもなく優しい人ばかりですね……みんな、優し過ぎます。どうして私なんかに」
「葵……」
「私は、どうしたらいいのでしょう。みなさんの優しさに戸惑っています。こんなの私じゃありません、なのにどうして私は優しさを怖がっているのですか」
「怖がらなくていい、君は少しは人の優しさに触れるべきだ。君の出生を少し調べさせて貰ったけど……壮絶な生き方であったからね、戸惑うのも無理はない」
「私の出生? 私が何処で生まれ育ったのか分かったのですか?」
「申し訳ない、少し調べさせて貰った。君に女中の仕事を紹介した廓の娘や、幼い君を廓に売った売人、そして君が生まれた土地や、亡くなった両親についても」
「私が生まれた土地を、知っているのですか?」
「ああ、時間はかかったが検討がついている。葵、君は家が何処にあるのか知らないのかい?」
「幼かった頃でしたので、曖昧にしか覚えていません、あの、半兵衛様にお聞きしたい事があります」
「家の場所かい?」
「はい、きっと家に帰っても何も残っていないと思いますが」
けれど、もしまたあの場所に帰れるのならば……この目で確かめたい。私がそこに居たという事実を、例えそこに何も無かったとしても。
私は確かにそこにいた。
「此処からだと君の故郷はとても遠い、行くなら暖かくなってからの方がいい。少し待って居てくれるかい? 地図を持ってこよう」
「はい、ありがとうございます」
半兵衛様が教えてくれた場所は、敦賀のもっと奥にあるらしい。山に囲まれた私の故郷、いつかこの目で再び見る事が出来る。
けど、それだけ遠い場所にあるならば行くのに時間がかかってしまう。
「……あ」
しまった、故郷を見に行くなら休暇を貰わなければいけない。仕事を休まなければ。
「半兵衛様、やはり故郷に帰るのは」
「ふふ、休暇なら僕が受理してあげるよ。大谷君には不自由をさせて悪いが、僕からお願いしよう」
「半兵衛様に隠し事は出来ませんね」
「いや君は随分と分かりやすいからね」
「……。」
「うん、葵はいつか悪い男に騙されそうで心配だ。いいかい、何があっても真実を顔に出さないようにした方がいい、隙を見せてはいけないよ」
「私にはそんなに隙がありますか?」
「君のような年頃の娘に言い寄る男も少なくはない、僕がもし葵の父親ならば今の君はとても心配だ」
「……。」
「大谷君もきっと心配するだろう」
「してくれるでしょうか……?」
「んん? ならばいっそ大谷君の側室になってみるかい? 彼ならば君を大事にしてくれそうだ」
「今の話を大谷様に聞かれていない事を強く望みます」
「……すまない」
「……。」
参ったな、と半兵衛様は笑っていた。
きっと冗談で言ったのだろうけど、私からしてみれば半兵衛様が言った言葉はとても胸に刺さりました。いつか大谷様の元に正室や側室の方が来るでしょう。それは決して私ではありませんし、私は大谷様の元へ嫁ぐ事も出来ません。
きっと私の手を握ってはくれません。
私では、あの方のお側に
ずっと居ることが出来ません。