暫く続いた曇り空も、今では気持ちの良い程に晴れ晴れとした青空へと変わり行き、陽気な雰囲気に己の身を貪る病など忘れてしまいそうであった。
暖かな風に吹かれて呼び止められたような気がしたが、ふと止めた足を再び前へと動かした。この身の行き先は豊臣軍の軍師である竹中半兵衛のところだった。松永の件もあり、そろそろ呼び出しがある頃だろうなと身構えていたが、幾分よりも早く呼ばれる事となった。
「(おおかた、葵の事であろ)」
過保護な賢人、それほどまでに葵の身が心配なのか。葵が松永の手に渡った時の賢人の表情が今でも鮮明に浮かび上がる。どうか同じ事が起こらないようにと願うばかりだ。賢人にとって葵という娘は、命の恩人であり、かけがいのない女であり、まるで己の娘もように扱っている。
賢人のあの娘への態度は普通ではない、その気になれば本気で竹中家に引き込んでいただろう。それは側室としてか、それとも養子としてか……どちらにせよ、賢人にとってあの娘の存在は大きい。
部屋を訪ねてみれば、相変わらず執務が忙しいようで机やその周りは酷く散らかっていた。この部屋の有様を葵が見ればすぐに掃除道具を持ち出し片付けようとするだろう。しかしこればかりは他人事ではないので、見なかった振りをして用件を尋ねた。
「やあ大谷君、忙しいところすまないね、僕としてはすぐに帰ってきた葵の元へ行きたいのだけど、彼らはそうさせてくれないようだ」
乱雑に積み重なった書状を見ながら、ふうと半兵衛は息を吐いた。
「葵は元気かい?」
「軍医によれば、問題はないと」
「そうかい、それは安心した。もし葵に何かあれば、僕は今すぐにでも松永を潰しに行くところだったよ」
「ヒヒッ、賢人が戯れを口にするとは珍しい事よ」
「ん? 僕は冗談を言ったつもりはないけど?」
「……。」
「本気だよ、葵に何かあれば豊臣軍全勢力を動かして松永を潰す。僕にはそれが可能だ」
「利口なやりかたとは思えぬが」
「ふふっ……僕は葵の事になると思考能力が衰えてしまうようだ。冷静な判断力こそ勝負の分かれ目だというのに」
「話というのは葵の容態の確認のみであったのか」
「それが一番だね、それと堺の交易と豊臣の軍議……いやこれは後回しにしよう。まずは葵のこれからについてだ」
たくさんある書状の中から、竹中半兵衛は一枚の紙を取り出した。そしてそれを広げるとどうやらそれは家系図のようであった。何故それを自身に見せて来たのか、うすうす竹中半兵衛の考えが見えてきた。
「さて、これが本題だよ大谷君。僕は葵を奥州なんかに嫁に出すつもりは毛頭も無い。それでも葵が欲しいと言うのならば奥州との戦も考えている、負けるつもりはないけどね。どんな事があろうと彼女にはこれからもこの地に居てもらう。勿論、大谷君にも葵にも拒否権はないよ」
「賢人よ、まさかとは思うが」
「そのまさかさ、そしてこれは竹中の家系図……葵は竹中家、続柄としては僕の娘としてこれからこの地で生きてもらう。それならば此処にいられる理由にもなるだろう」
「……。」
「不服かい? 大谷君。葵の幸せを願うならばこうするのが一番だと僕は考えたんだ、どうか君にも理解して頂きたい」
広げた家系図を片付け、竹中半兵衛は理解を求めるように真っ直ぐとこちらを見つめてきた。この男はどれだけあの娘の事を気にかけているのか、自分の養子にしようなど、葵がそこらにいるただの娘だったのならば考えもしないだろう。葵だからこそ、このような考え方を。
決してこの話は竹中半兵衛の戯言でもなんでもない、まるで戦前のようなその眼光に、彼にとってこの話が本気だと思わせてくる。
「竜の右目、片倉小十郎にはこちらから縁談の話を白紙にするという文を送ったよ。いや、送りつけてやった。矢文で送ったのだけど、彼が怪我をしていない事を祈るよ」
「白紙に、と」
「全て無かった事にした、葵を奥州に渡すなんてとんでもない話だったからね」
「……。」
「おや、余計な事をしてしまったかな?」
「……いや、ヨイ。手間が省けた」
「手間が省けた?」
「奥州への縁談は元より破棄するつもりであった。しかし賢人が既に事を起こしたというのならば、われが竜の居所に出向く必要がなくなった」
「なんだ、既に考え直してくれていたんだね、嬉しいよ。もう葵の縁談話なんて僕の胃を痛めつけるような真似はしないでくれ」
安心したようで、竹中半兵衛は立ち上がり部屋を出ようとした。これで話は終わりだと言わんばかりの様子に対し、大谷は静かに口を開いた。
「葵は竹中にはやらぬ」
その一言に、竹中半兵衛の体がぴたりと止まった。こちらに向けていた背中はすぐに振り返り、そして鋭い眼光をこちらに向けていた。
「今、何か言ったかい」
竹中半兵衛は座っている大谷の前まで進み、そのまま大谷を見下して言葉を投げかけた。かちり合う視線に、部屋の空気が冷たくなり、何処からか皿が割れるような音が聞こえた。
闇属性の大谷でなければ、この竹中半兵衛の気には耐えられなかっただろう。
「賢人よ、その気を抑えよ」
「理由が先だよ、何故だい大谷君。葵を竹中に迎えられない理由があると言うのならば是非とも聞かせて欲しい」
「葵を大谷に迎える」
「え?」
「理由になっているであろ」
「ちょ、ちょっと待って大谷君。正気かい? まさか葵を養女にするなんて……妻を娶らずに娘を持つだなんて、どうして君はまたそんな事を」
「まちとまて賢人よ、われは葵を娘にする気はない」
「え? だって今君は大谷にって、そういう意味じゃないのかい? 僕はてっきりそうだとばかり」
「そうではない、葵をわれの妻として大谷に迎える事にしたのよ」
ようやくその旨を伝えると、竹中半兵衛が無表情になったかと思えば、その口は開いたまま固まっていた。彼のこんな表情を見るのはどれだけ振りだろうか、常に如何なる時も冷静を保っている軍師の、こんなにも呆気にとられた表情などとても貴重なものだと心の中でそう思った。
竹中半兵衛は少し静止した後、自分を取り戻したのか「え!?」とようやく声を出した。
「な、え、それは」
「賢人よ、落ち着くがよい」
「落ち着いていられるか! ……あ、いや、すまない、気が動転して、ちょっと話を整理させてくれないか。えっと、大谷君は葵を」
「妻に迎える」
「葵を妻に……」
「ふむ……奥州の片倉や松永久秀のように、葵を自分のものにしようとするわれさえも、賢人にとっては粛清対象となるやもしれぬな」
「そ、そんな事はない、ただ少し驚いて……まだ現実を受け止めきれていないけれど、葵を大谷君の妻とするという事には僕は反対しない、むしろよく決断してくれた。葵も大谷の姓ならばこの地で生きていけるだろう。しかし葵が大谷君と夫婦に……うん、仲人は僕がやろう」
ばたばたと竹中半兵衛はたくさんある書物の中から何かを探しているようだった。「えっと、着物は篁屋に頼むとして……」と呟く声を聞いてまさかと思い聞いてみると、「え? 祝言の準備だよ」と、当たり前のように答えた。
なんとも気の早い軍師よ。
「葵も大人になったからね、うんと綺麗な振袖を用意してあげないと、きっと似合うだろうね。あ、黒引きと白引きどっちがいいかな? 僕としてはやっぱり黒を基調として、紅を……あとは」
「賢人よ、計らっているところすまぬが、祝言を挙げるつもりはない、葵もそれに合意しておる」
「何を言っているんだい大谷君! 葵の人生に一度の晴れ舞台だ、綺麗に着飾らなくてどうするんだい! 僕は僕が出来る事を全て葵にしてあげたいんだよ、だから祝言は盛大にするよ」
「葵の身は祝言の場に耐えられぬ」
「なんだって? 葵の容態は良いんじゃないのかい? そんなにも悪いだなんて……」
「無理をさせなければヨイ、どうか今しばらくは動かさずにやってくれぬか」
「……葵の身の為だ、分かったよ」
「すまぬ」
竹中半兵衛に頭を下げると、「よしてくれ」と言われてしまった。彼の表情はとても暖かいものであった、大谷はひとまず安心し、これからの葵の事情を説明しようとしたが、
大きな足音によって、それは叶わなかった。
「Hey! 竹中半兵衛! テメェ小十郎に向かって矢文たァいい度胸してるじゃねぇか!! どうやらこの俺に喧嘩を売ってるようだなァ! いいぜ乗ってやるよォ!」
「政宗様っ! 小十郎は気にしておりません! どうか落ち着き下さい!!」部屋に乗り込んで来たのは、奥州の竜とその右目だった。どうやら先ほど竹中半兵衛によって射たれた矢文に奥州筆頭は相当ご立腹らしい。
それに比べて、その右目はやけに落ち着いて我が主の怒りを収めようとしていた。
「ああ、なんだ君達か。矢文は読んでくれたかい? 言いたい事は全てその文に書き綴っておいたよ、まぁそういう事だから君達は早いうちに奥州へ帰ってくれないか」
「竹中半兵衛! 縁談話を白紙たぁどういう事だ!」
「言っただろう? 葵を奥州に渡すつもりはないと、それに葵には別の嫁ぎ先がもう決まっているんだ、だから葵の事はさっぱりと諦めてくれないか」
「嫁ぎ先だぁ? 小十郎よりも良い嫁ぎ先があるっていうのかよ、納得出来ねぇな」
「政宗様! この小十郎は政宗様より先に娶るつもりはありません、どうかこのまま奥州へと帰りましょう」
「Shut up! このまま引き下がれるかよ! 一体どこのどいつだ、小十郎より良い男っていうのはよぉ!」
伊達政宗はギロリと竹中半兵衛を睨んだ。やれやれ仕方ないな、とそう言っているかのように竹中半兵衛はため息を吐いて大谷の方を見た。
「大谷君だよ」
「ah?」
「葵は大谷家に嫁ぐ、大谷君の妻となるんだよ。これはもう決まった事だ。口出しは無用でお願いしたいね」
「大谷だと!??」嫁ぎ先を聞いた伊達政宗は「あり得ない」といった表情をしていた。小十郎も葵の嫁ぎ先を聞いて驚いているようだった。
「な、なにかの間違いだろ!? あ、あの大谷が」
「事実だよ」
伊達政宗と竹中半兵衛が言い合いをしている中、片倉小十郎は騒がしい中、凛と静まっている大谷の方を見た。片倉小十郎でさえも、大谷が葵を妻にしたという話を信じられずにいた。
確かに葵は大谷の部下として、そして世話係として大谷の一番身近な存在だっただろう。だがしかし、そうであったとしても妻にするという事実に繋げる事がどうしても出来ないのだ。大谷は葵を愛しているから妻にするのか、それともこれもまた大谷の策ではないのか。数手先まで読む大谷の知能ならば、それさえもあり得る話だ。
「右目よ、そう見つめてもわれからは何も出やせん。引っかかりがあるならば吐き出してもよい、誰もぬしを咎めはしない」
「大谷……テメェは」
「如何した」
「テメェは、何を企んでいやがる」
「企むと? やれ、われは何も企んではおらぬ。今の賢人の話を聞いて一体何があるというのか」
「しらばっくれるな、急に葵を妻にするのはおかしいだろ、何かしらの策略だと考えるのが普通だ。葵を妻としてあいつをどうするつもりだ?」
「どうもせん、ただの心変わりよ」
「松永に葵を取られたからか? 他人に取られたくない理由があるんだろう、お前の事だ、葵の不思議な鬼の力とやらを悪用しようと考えてるんじゃねぇだろうな? だとしたらお前が葵を手放さない理由になる。どうなんだ」
「どうだかなぁ」
「……葵をテメェの策略に利用するつもりか?」
「そうだと言えば、片倉よ……ぬしはどうするというのだ」
「葵をテメェの元に置いていけねぇ」
「しかし片倉よ、葵は自らわれの元におる。困った事に葵はわれから離れようとはせぬ、やれ困った困った」
けたけた笑う大谷に、小十郎の機嫌はますます悪くなっていた。大谷の煽りに反応してはいけないと、片倉小十郎はぐっと出かかった怒号を引っ込め、再び大谷へと視線を戻した。
大谷が何を考えているかはわからない、今の葵の状況が良いものなのか、悪いものかも分からない。しかし、葵の将来は良いものであって欲しいと思っている。好意からではない、自分の中の何かが葵を心配しているのだ。
「大谷、もしお前が葵を無理矢理に縛り付けているのだとしたら……葵を妻にするとその考えには賛成が出来ねぇな」
「ヒヒッ、そう憤るな片倉よ」
「……。」
「ぬしが何を言おうと、これはもう覆されぬ現実よ。葵はわれの妻となり、われのものよ、ぬしのものにはなりはせん」
「別に、あいつが欲しいわけじゃねぇ。人を策略の道具にしそうなお前の元に葵を嫁がせるのが心配なだけだ」
「その心配は無用、葵も合意の上である。子を身篭った葵を見放しには出来ぬ、ぬしのその要らぬ心配は遠い遠いどこかへ飛ばしやれ」
「合意って、それはテメェが無理矢理……ちょっと待て、今何て言った?」
「何と、とは」
「葵は身篭って……いるのか?」
片倉小十郎のその呟きに、言い合いをしていた竹中半兵衛と伊達政宗がそれを聞き、バッと大谷らの方を向いた。
竹中半兵衛は驚きで言葉が出ず、伊達政宗の口からは「reary?」と一言吐き出された。
「おおおおおお、おお、大谷君? 今の話はどういう事だい? 葵が、え、葵が身篭っているというのは本当の話かい? まさか、葵が、そんな」
「われも信じ難いが、藤吉が言うのならば間違いはあるまい」
「shit……」
「あれ? でも葵はこれから大谷君の妻になるんだよね? けど既に子を身篭っている、これは一体どういう事だい?」
「おい大谷……まさかとは思うが、葵の子っていうのは」
竹中半兵衛と伊達政宗、片倉小十郎の視線が全て大谷の方へと向けられた。そして開口一番の台詞を待っていると、大谷は息を吐いて言葉を発した。
「われの子、らしいのよ」
その言葉に、三人はそれぞれ驚きの声をあげた。一人は驚きのせいか酷く咳き込み、一人は南蛮の言葉をひたすらに並べ慌てふためき、一人は大谷の着物の胸ぐらを掴み揺さぶっていた。
「大谷っ、お前っ、お前は、葵に手を出したのか……?」
「うむ」
「葵は、お前の部下じゃ、ねぇのか」
「うむ」
「なのに、お前、なんで」
「何故と聞かれても困るのでな、葵を喰うたのは今更の事であり、それを問われても返答に困る」
「今更って……まさか以前からお前は葵と」
「答えるつもりはない。さて奥州の竜共よ、帰り支度を早う済ませるがいい、ぬしらが此処に残る理由などもう無いであろう」
葵という鬼の娘を欲しがっていた伊達だったが、葵の容態を聞いて気が変わったのか「小十郎、帰るぞ」と片倉小十郎に言い放った。
「……はっ」
「おい大谷、小十郎の嫁に出来ないのは残念だったが、ちゃんと幸せにしてやるんんだぞ」
「竜のひとり言に耳を傾ける時間など、とても惜しいものよ」
「減らず口は相変わらずか……チッ、まぁいい。じゃあな」
伊達政宗は腹心の片倉小十郎を連れて部屋から出て行った。シンと静まり返った部屋では、竹中半兵衛が頭を抱えていた。
しかし一方の大谷は、何も言葉を発することはなく、ただただ竹中半兵衛を見上げているのみであった。
「そうか、葵は、大谷君と」
「……。」
「ああ、そうだ、これでいいんだ」
「……。」
「大谷家の子ならば、葵は士族としてこの地で生きていける。姓と家さえあれば葵の身の安全は守られる。れっきとした理由になる。これでいいんだ、この在り方こそが葵が幸せに生きていける方法だったんだ、そうだろう大谷君!」
「賢人よ、ぬしは葵が幸せであると?」
「ああそうさ、葵は誰よりも、悔しいけれど僕よりも大谷君に懐いている。そんな葵が大谷君と共にこれからも生きていけるんだ、これが幸せと言わずになんと言うんだい? 僕も秀吉と共に残りの人生を過ごしてみたかったよ、大事な者と共にいるのが一番の幸せだと僕はそう思うよ」
「……さようか」
葵は幸せであると、幸せに生きていけると竹中半兵衛は安心したように言った。その言葉を受け止めずにいる大谷だったが、次第にその言葉が現実的なものであると思うようになっていた。
葵が幸せであるならば、喜んで共にいよう。そう、自分の心に留めた。
2018.11.18