「え、大谷様が?」
厨房で夕餉の準備をしていると、一緒に働いている女中から屋敷にいる大谷様が私を呼んでいると聞かされ、持っていた包丁をまな板の上に置いてすぐにお部屋へと急いだ。
「(どうしたのでしょうか?)」
お薬の時間はまだ早いし、包帯も換えたばかり、墨も足りているし、煙管は吸いすぎないように葉の数を調整させて頂いた。(きっと大谷様に気付かれています)
ならば、私は一体どういった用事で大谷様のお部屋の呼ばれたのだろうか。
「大谷様、葵です」
襖の前でそう言うと、「入れ」という声が聞こえたのでゆっくりと襖を開けた。
「失礼いたします」
大谷様の部屋に入って真っ先に目に入ったのは机に向かう大谷様の背中と、大谷様の腕に絡み付き、まるで寄り添うようにくっつく黒髪の女性。
「!」
私の胸の奥が、ざわりとした。
黒髪の女性の顔は見えなかったが、お二人はとても仲睦まじく見えた。
「大谷様、お呼びでしょうか?」
「……葵、なの?」
「え?」
どこかで聞いた事のある声
そう思っていると、大谷様に寄り添っていた黒髪の女性が私の方を向いた。
「お市様?」
黒髪の女性は、お市様だった。
「……葵、葵なのね? やっと貴女に、葵に会えた」
「お市様、ご無事でしたか!」
お市様は私を見た途端、大谷様から離れて私に抱き着いてきた。そして「市は無事、だって若虎さんや蝶々さんが助けてくれたから」と教えてくれた。
「……葵、貴女の顔を見せて? 市の大切な友達、葵」
「お市様、私は元気ですよ」
私の顔にお市様は綺麗な手で添えて来た。しかしお市様はどこか悲しそうな顔をしていた。
「お市様?」
「どうしたの? 何故なの?」
「え?」
「やっぱり鬼さんは、葵の元からいなくなってしまったのね」
「鬼が、いない?」
「……葵を愛した鬼さんは、葵からいなくなってしまった、もう戻ってこないのね」
「どういう、事ですか」
私の中には、鬼が住まうのではないのですか?その鬼が、いない?
何故いなくなってしまったんですか?
「お市様、私の中に鬼はいないのですか?」
「いない、闇を感じない……どこにもいない」
「闇? そうですか、それで私は闇の力を失い、婆娑羅が使えなくなってしまったのですね」
大谷様の方を見ると、黙って此方を見るばかりで口を出そうとはしなかった。
「……。」
「(大谷様は、もしや気付いていた?)」
大谷様の事だからきっと、婆娑羅の力が使えなくなった原因も予想が出来ていたのかもしれない。
「けど、どうして鬼は私の中からいなくなってしまったのでしょう?」
「……鬼さんは、葵から離れたくなかった、けど、死神さんが無理矢理、葵から引き離したの……市、やめてって、何度も言ったのに」
「死神さん?」
誰の事だろう……と、大谷様の方を見ると「天海の事であろ」と教えてくれた。
なるほど、あの人ですか。
「死神さんはね、鬼さんの力が兄様を呼ぶのに必要って言ってたの……だから市ね、鬼さんに頼んで葵を生き返らせて貰ったの」
「鬼が、私を生き返らせた?」
また私は、鬼によって生き返ったんですね。どうやら私は鬼にとても愛されていたようです。
「鬼さんは、葵の為に、葵が再び自分を犠牲にしないように……記憶を奪ったの」
「記憶、を」
なるほど、だから私は大谷様の事や大阪での記憶を無くしていたんですね。
「ごめんなさい……鬼さんを、葵から離してしまって、ごめんなさい、助けてあげられなくて、ごめんなさい」
「いえ、私はこの通り無事です、悲しまないで下さい」
そうですか。
私の中にいた鬼はいなくなってしまったのですか。だから私は闇の力を失い。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「泣かないで下さいお市様、鬼は私を救ってくれました。二度も、私を生かしてくれました」
「ごめんなさい、葵……ごめんなさい」
「顔を上げて下さいお市様、貴女の友人である私はこうして再びお市様に会えました、それを喜んではくれませんか?」
「……葵、」
「お市様、どうか私の友人になって下さい」
お願いします……とお市様に言うと、お市様は静かに頷いてくれた。
どうやらお市様は大阪城に身を置くらしく、いつでも会えると大谷様が教えてくれた。
ちなみに真田様と佐助さんも今しばらくは大阪にいるらしい。
相変わらず真田様は大谷様に兵法を叩き込まれているようです。大谷様から教わる事ができるなんて、私からしたら羨ましい限りでございます。
ずっと机に向かう真田様はぐったりしていました。本来この方は体を動かす方が性に合っているようです。
「……葵殿、某はもう疲れたでござる」
「もうひと頑張りですよ真田様、休憩の際には甘味をお持ちしましょう」
「葵殿はお優しいでござるな、それに……葵殿は」
ちらりと真田は葵の方を見た。
「(それに、葵殿はしばらく見ないうちに、綺麗になられたでござる)」
そう思ったが、恥ずかしくて口に出すことは出来なかった。
「これ真田よ、頬を染めずおらず兵法の一つでも暗記せぬか」
「ほほ、ほ、頬を染めてなど!」
「われの世話係に手でも出すというのか? うむ、若虎も女の前では男か」
「葵殿に手など滅相も御座らん! それに葵殿にもいつかは嫁入りする身! 某のような男が見惚れてはいかぬ」
「……ほう」
「あら、私のような者に好き好んで手を出す殿方なぞおりませんよ、それに私は嫁に行く気はありません」
「それはいかんでござる! 葵殿のような美しい女子(おなご)ならば、いくらでも貰い手がいるでござろう!」
「しかし、私は大谷様の世話係にございます」
「うむ、それは百も承知、ならば貰い手とあらばまずは大谷殿に挨拶をするのが礼儀であろう!」
「あ、いえ、そういう意味ではなく」
私は嫁に行く気など全くありません。
大谷様の世話係として生き、大谷様の為に死に行く人生にございますから。
「私が居てはお勉強の邪魔でしょうから退席致します。また後ほどお伺い致しますね大谷様」
「あいあい」
「葵殿、行ってしまわれるのか……」
真田幸村は、部屋から出て行ってしまった葵を残念そうに見つめていた。
「しかし大谷殿、葵殿は誠に嫁入りせぬつもりであろうか」
「あの娘がそうと決めたのならば、われらがとやかく言うものではない」
「葵殿のような気立ての良い娘ならばすぐにでも声がかかるでござろう……大谷殿は葵殿をどうしたいでござるか?」
「あの娘は死ぬまでわれの世話係よ、われの道具となり、こき使うまで」
「……大谷殿は、大谷殿でござるな」
葵殿は大谷殿の為ならばきっと、大谷殿が言ったように死ぬまで大谷殿の世話係として生きるだろう。
それが、葵殿の望む未来ならば