119、たった一言だけ伝えたい








「うむ、良い、やはり良い」


骨董品が並ぶ、煌びやかな座敷にて松永久秀は心地良い笛の音色を聞き入りながら、盃に注がれた日本酒を口に運んでいた。酒を楽しむ彼の前には笛を吹く葵の姿があった。

笛の音色は、静かな夜を特別なものへと変えていた。淑やかで、美しく、柔らかい音色は松永公をも魅了していた。






「数多くの笛を聞いてきたが、やはり君の音色が一番美しい、雑音すらも何もない、こうも笛に惹かれるとは思わなかった」


笛を吹き終えた葵は、笛をゆっくりと下ろして松永久秀に頭を下げた。与えられた笛はとても高価なものだった、しかし久しぶりに笛の音色を奏でられるという気持ちが上回り、松永公の前だというのに指が勝手に動いていた。上手く吹けるかどうかの心配など私には無かった。






「お褒め下さりありがとうございます」

「そうだな、君には是非とも褒美をやらねば。さて、欲しいものは決まったかね?」

「……褒美など」

「言ってみたまえ、私なら君の欲しいものを与える事が出来る」

「……。」

「欲望を言葉に出来ぬと、これは困った。人という生き物には全て欲望というものが必ずあるのだよ。そして君にも、その欲望があるはずだ」

「……。」

「おや、随分と君は人として必要なものが欠如しているようだね、それとも君は望む事すら諦めてしまっていると?」


松永公は隣に寄り添う女から再び酒を注いで貰い、それを口にした。そして葵の方を見ながら、少し考えているようだった。




「ふむ」

「……。」


松永久秀の見透かされるような視線にぎこちなさを感じた葵は、そっと目をそらして、手元にある笛を見つめた。





「分からないな、君は一体何に恐怖を感じているというのか、自分自身に降りかかる何かか? それとも君の飼い主の事か?」

「!」

「恐れ、怯え、願望すら口に出来ないとは、それはそれは人として悲しい事だ。この世は決して意地悪ではない、望んでも良いのだ。人というのはそういうものだ。そうして生きていく」

「……。」


葵は気付けば顔を上げて松永公の方を真っ直ぐと見ていた。彼もまた、酒を飲みながら葵の方を見ていた。その視線に、とても優しいものを感じた。松永久秀という男はこんなにも優しい目をするのだろうか。







「松永様……」

「君には、希望を贈ろう」

「希望?」

「人らしくある為に、望む事から目を背けてはいけない。己の心を偽るなど、そんな偽善は必要ない。理想や信義に生きるなど、そんな偽善者になってはいけない」

「……。」



己の心を、偽るな。


松永様の言っていた言葉は私の胸にとても刺さった。痛い、けど、それよりも心を偽り続ける方がもっと痛い。



私の望み、私の欲しいもの。





「……あります、私の、欲しいもの」

「見つけたかね」

「……けど」

「君の心にはずっとそれがあったのだろう、しかし、残酷にもそれを閉じ込めてしまっていた。不可能だと、無理だと、勝手に決めつけていたのだろう」

「望んでは、いけないんです」

「そんな事はない、君は人だ。人らしく生きるべきだ。欲しいものを望んでも誰も君を咎めはしない」

「私は……」



私は、私には、欲しいものがある。決して口にしてはいけないと、ずっとずっと心の奥に閉じ込めていたものが、誰にも口にはしない、私だけの願望。



我儘な願望だけれど、私の欲しいもの。






私の欲しい未来が、






思い浮かぶのは、とても優しいあの人。


病により蝕む己の身を不幸だと嘆いていたあのお方、賢く、それでいて知識人で、たまに毒を吐く事はあるけれど、あの人の周りにはいつも人が集まっていた。

たくさんの人に好かれ、友人にも恵まれ、部下にも慕われていた。力もあり、才もあり、だけど自分の事には鈍感で、寝ずに仕事などいつもの事で、煙管をなかなか手放してはくれなくて、世話係となったあの日から私はいつも後ろから見つめていた。私に用を押し付けてくれるのが嬉しかった。包帯を替えさせてくれるのが嬉しいかった。私の名前を呼んでくれたのが嬉しかった。ずっとずっとこのお方に付いて行こうと思った。




私の望んではいけない望み、



それは大谷様と共に生きる事。





本当は離れたくなかった、ずっと一緒に居たかった。そばを離れたとしても、大谷様の温かさを忘れる事など出来なかった。

いつものあの日常がずっと続けば良いと思っていた。何気ない毎日がとても幸せだった。不幸と思った事など一度もなかった。どんな形であれ、私はきっと大谷様に出会えば惹かれていた。慕っていた。私と同じ気持ちでいてくれたらどんなに良いかと嘆いた。必死の想いを伝えて、大谷様には拒絶されてしまったが、それでも私の気持ちが変わる事は無かった。だってずっと前からお慕いしているんですもの、そう簡単にこの気持ちを失う事など出来ないでしょう?




もし望んでも良いのなら、


大谷様の隣に居させて下さい。




あの人の手に触れたい、暖かい体温感じたい、低く、心地良い声が聞きたい。そして私の名前を呼んで欲しい。









「もう扉は開いているのだろう? 君には欲しいものがある、こうでありたいという確かな願望がある」

「松永様の甘い甘い言葉には、つい惑わされてしまいますね、不思議です」

「これでも女をあしらうのが上手くてね。……いや、好色というわけではない。癖のようなものだ、敵意をなくし信じさせるというのもまた戦術というもの」

「とてもお上手です、つい望みを滑らせ、言ってしまいそうになってしまいました」

「君には希望を贈ったのだ、もう奥へと押し殺す事はあるまい」

「ええ、おかげさまでずっと殺していた我儘な願望が出てきてしまい、こうも自分が強欲だったとは思いもしませんでした」




大谷様への気持ちは置いてきたと思ったのだけど、そうはいかなかったようです。私はこんなにもあの方を想ってしまっている。吹っ切れてなんかいない。むしろ今すぐにでも抱きしめて欲しいとさえ望んでしまっている。


私はこんなにも強欲だったなんて。





「松永様、笛を吹かせて頂いても?」

「構わない」



再び、静かな夜に笛の音色が響いた。



心の中でずっと押し込んでいた気持ちが溢れて出てくるのを感じた。ああもう、ずっとずっと押し込んでいたのに、思い出さないように、決して望まないようにと誤魔化してきたのに。


やはり私は人というものらしいです。


私にも願望はあります。決して望んではいけない想いでしたが、一度望んでしまえばもう隠し通す事が出来ない。



思い浮かぶのは幸せだったあの日々。

大きな背中にいつも恋をしていた。






あの人だったから、私は私でいられた。
あの人だったから、私は強くなった。


離れても、私は再びあの人と出会った。
もう離れたくないと思った。
忘れる事なんて出来ないと分かった。





大谷様だからこそ、また会いたいと。

そう願ってしまうんだ。









「(離れる事なんて、やっぱり無理だったのかしら)」



此処には大谷様は居ない。

何処にもいない。だって私からあの人の元を離れたのだから、私から逃げ出したんだから。自分の本当の気持ちに気付いたところで、今更もう遅い。




貴方は今、何を思っていますか?




体に障りはないですか? お薬はちゃんと飲んでいますか?徹夜でお仕事をしていませんか? そういえば私に話があったんですよね、ごめんなさい聞くことが出来なくて。


私は大谷様を、大事な主様を裏切ってしまったんです。何も言わずに離れてしまったんです、これは決して許される事ではありません。



けど、どうかお願いです。




私の、この想いだけは、ちゃんと聞いて下さい。伝えさせて下さい。


そして一言だけ言わせて下さい。





私は貴方に出会えて、幸せでした、と。







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