ある日、一人の若い男が城内にある書庫へ足を運んでいた。
そして書庫の前に来るやいなや、彼は大きなため息を吐いた。
「はあ……」
(俺ってば、どんだけ葵に未練あんだよ、また此処に来ちまった)
この書庫は葵との思い出が多過ぎる。そんな思い出に浸りたいのか、俺はまた此処に来てしまった。
此処に、葵が居るわけないのに、どうしてもまた来てしまう。
「(いい加減、俺も落ち込んでいられねえよな)」
いつものように読みもしない書庫の中に入って、奥の方に進んだ。葵はこの奥でいつも一人で握り飯を食っていた。
(ま、居るわけねえけど)
「あれ? 左近さん、こんにちは」
「よお、葵」
「休憩しに来たんですか?」
「おう、お前がいるんじゃねえかなって思って来た……ん、だけど」
ん?
んん??
「葵ッ!??」書庫の奥に進むと、そこには座り込んで握り飯を頬張る葵の姿があった。
「声が大きいですよ左近さん、此処でおにぎり食べてる事がバレちゃうじゃないですか」
「あ、すまん……
じゃなくてッ!!」
「?」
もぐもぐと握り飯を食べていた葵はごくんと飲み込んだ。食べ切った葵は「どうしたんですか?」と左近に聞いた。
「いや、うん。俺疲れてるんだな、じゃなきゃ葵の幽霊が見えるわけ……」
「久しぶりに会ったというのに人を幽霊扱いですか?」
「やっぱり葵の幽霊だな、まるで本物の葵が目の前にいるみたいだ」
「もう、幽霊じゃありませんよ、ほら足だってちゃんとあるでしょう?」
葵は座ったまま着物の裾を少し上げて、足がある事を左近に見せつけた。
「……あ、本当だ。足がある。最近の幽霊って足があるんだな」
「左近さんって幽霊が視える人だったんですか?」
「でも、葵の幽霊だとあんまり怖くねえな! 俺もっとビビるかと思った」
「あの、私は幽霊じゃないですよ?」
「え? いやだって今も葵の幽霊が俺の目の前に」
「幽霊じゃないですって」
葵は立ち上がって、ずいっと左近の前に立った。不思議に思った左近はなんとなく葵の頭に触れた。
「……あれ?」
「ね? 触れるんですから幽霊じゃないでしょ……って、わッ」
頭を撫でられたかと思いきや、突然引き寄せられて、ぎゅうっと抱き締められた。
「あれ? あれ? 幽霊に触れる? なんで?」
「……左近さん、わざとやってませんよね? 私は幽霊ではないんですからそりゃ触れますよ」
「いや、だって葵は死んだんじゃ」
「死んだ事になっていましたが、けどこうやって生きてますよ」
「マジ?」
「マジです」
「……え、葵が、生きてる? なんで? 意味わかんねえ」
唖然としている左近は、本当に本当に本物なのか葵の顔を見つめたり、手を握ったり、ぎゅうっとキツく抱き締めたりした。
「……葵、痩せた?」
「どこを触っているんですか左近さん」
腰や尻を撫で回され、離れようとしたが左近の力が強く離れる事が出来なかった。
「あの、左近さんそろそろ手を」
「……葵が、生きてる」
「……。」
離れて下さい、と言おうとしたが彼はとても嬉しそうな顔をしていたので諦める事にした。
「生きてますよ、左近さん」
「生きてる」
「はい、葵は生きています」
「……マジかよ」
力が抜けたのか、
左近さんはその場にしゃがみ込んだ。
「生きて、いたのか」
「帰るのが遅くなってすみません」
「本当っスよ、葵が死んで俺はずっと落ち込んでたのに、なのに、生きてたとか、
早く帰ってこいよ馬鹿!」
「……すみません」
「葵」
左近は立ち上がって、葵を見下ろした。
「おかえり」
「ただいま、左近さん。待たせてしまったようですみませんでした」
「いや、葵が生きてて良かったっス、また大阪城(こっち)で刑部さんの下に付くんスか?」
前みたいに此処で握り飯を食べていたって事は女中として働いて、そしてまた部隊に戻って戦ったりするのだと左近は思ったが、葵はどこか晴れない表情だった。
「……。」
「どうした? まさか刑部さんの世話係を解雇されたとか?」
「いえ、大谷様の世話係は継続させて頂いているのですが」
「じゃあ、何があった?」
「……。」
「?」
座り込んだ葵の隣に、いつもみたいに座った。こうやって隣同士で話すのは懐かしく思いながら、曇った表情の葵の顔を伺った。
「実は、部隊に戻る事を却下されてしまいました、私はもう皆さんと一緒に戦わせて貰えません」
「あー……刑部さんに?」
「大谷様と、半兵衛様と、隊長に」
「ほぼ全員っスね」
「どうして私は婆娑羅が使えなくなってしまったのでしょう?」
「使えない? あの黒い手とか?」
「ええ、何度か頑張ってみたんですけど、どうやら闇の婆娑羅が一切使えなくなってしまったんです、きっと部隊に戻して貰えないのはそのせいだと思うんです」
「(いやあ、きっと刑部さん達は、葵にはもう戦って欲しくないんだと思うっス)」
俺も含め、もう葵を失いたくはないから。葵が目の前で死んでしまったあの日を、もうあの日のような悲しみは来ないで欲しい。
「……悪いけど、俺も葵には戦って欲しくないな」
「左近さんまで」
「葵が弱いとか言うんじゃないけど、これからは俺が守ってやりたいんスよ、きっと刑部さん達も同じ気持ちだと思う」
「……主様に守られるなど」
「そういうんじゃなくって、女は大人しく守られていればいいんスよ、たまには男の俺達に格好付けさせて貰えないと、男が廃るってもんでしょ!」
「そうなんですか?」
「そうそう、きっと刑部さんだって」
「しかし、大谷様は私を助けたりしないとハッキリと申していましたが」
「刑部さん、鬼っスね」
少しは男らしく「守ってやる」の一言くらい言ってあげればいいのに、でもあの人らしいと言えばらしいかな。
「守られる……ですか」
「そ! まぁ、急に守られろって言っても葵は納得しないだろうけどさ、たまには甘えてみてもいいんじゃない?」
「……甘える?」
「葵は昔から働き過ぎだって、適度に息抜きしないと倒れちゃうぜ?」
「たまにこうやって隠れて、書庫で息抜きしていますよ?」
「飯くらいもっとゆっくり食べて欲しいっスけどね、あと葵が此処で握り飯食ってる事、刑部さん知ってるっスよ」
「えっ」
「ま、俺がバラしちゃったんだけど」
「えっ」
「ごめん」
「どうしましょう、私怒られますね」
「俺も一緒に怒られるっス、つーか刑部さんってあんまり怒ってるところ見たことないけど、もしかして結構怖い?」
「口を利いてくれません」
「……んで?」
「以前は廊下を走る真田様の頭に数珠を落としていました」
「うげえ、痛そうっスね」
「あの方は心の広い方なので怒るという事はあまりありませんが、機嫌を損ねたくはありません」
しかし、此処でおにぎりを食べていた事は既に大谷様にバレてしまっている。ここはもう往生際良く怒られましょう。
「刑部さんって葵相手でも怒るのか? 甘やかしてそうな感じなんだど?」
「いえいえ、私さえも大谷様に怒られる事はありますよ?」
「いやー……絶対にあの人、葵には怒らなそう、伊予河野の巫女さんとかお市さん相手にも全然怒ってなかったし、刑部さんてもしかしたら女には怒らないんじゃ? あ、女に弱いのか」
「女に弱い、なるほど」
確かに大谷様は巫女様に口煩く言っている姿を見たことがありません。なるほど、大谷様は女性に優しい……というより、手や口を出したりしないのですね。
「刑部さんって優しいっスね。三成様だったら女相手でも容赦なさそうなのにな」
「そうですね」
ふと、三成様が女中を斬りそうになった事件を思い出した。あの時はなんとか落ち着いてくれて良かったものの、止めなければ城に血が流れていたでしょう。
「さてと、私はそろそろ仕事に戻ります」
よいしょ、と葵は立ち上がった。そろそろ大谷様からもお声がかかるかもしれない。休憩はもう十分にさせてもらった。
「では、私はこれで」
「葵、刑部さんに苛めれないようにね」
「苛め……?」
左近さんの台詞に疑問に思いつつ、仕事に戻ろうと書庫の奥から先に進もうとすると
「……わッ」
前をちゃんと見ていなかったせいで、書庫の中にいた誰かとぶつかってしまった。
「すみませ……」
「われがおぬしを苛めるとな」
「げっ」
「大谷様……?」
なんとまあ、私がぶつかってしまったのは大谷様だった。それにしても、いつから大谷様は書庫にいたのか。もしや私と左近さんの会話を聞いていましたか?
もし聞いていたとしたら一体どこから
「あー……刑部さん、いつから書庫に居ました?」
「われは女に弱いと? そうよなァ」
「すみませんでしたッ!!」左近は頭を勢いよく下げて、「じゃあ俺忙しいんで!」と書庫から出て行った。
「(左近さん……まさか、逃げた?)」
私を置いて逃げましたね左近さん!
ひどいです!このままじゃ私だけ怒られるじゃないですか!逃げるなら私も連れて行って下さいよっ!
「……。」
「(どうしましょう)」
左近さんが逃げ去って行った書庫の入り口を見ていた大谷様が、ゆっくりと私の方を見下ろしてきた。
ああ……これ、怒られますよね。
書庫でこっそりとおにぎり食べていた事も大谷様にバレてますし、さっき失礼な事も言っていましたし。
「葵」
「は、はい」
大谷様は女性には優しいと左近さんは言っていましたけど、それはお客様である巫女様や姫様であるお市様にだけであって、女中の下っ端である私には厳しいでしょう。大谷様の大きな数珠が頭の上に落ちてくるととても痛そうです。
「あ、あの」
大谷様に怒られる
そう思うと、体が震えた。
「葵、書物を片すのを手伝え」
「え?」
「早くしやれ」
「は、はい」
大谷様が部屋から持って来た書物を書庫に戻すようにと言われ、すぐに書物を手に取って元の場所に片付けていった。
「(あれ? 怒られない?)」
てっきり怒られると思って身構えていたのに、大谷様は私を怒るような言葉を何も言わなかった。
「……。」
「なんぞ」
「い、いえ」
ちらりと見ていた事がバレてしまった。ひたすら書物を片付けたが、私が大谷に怒られる事はなかった。
「(大谷様は本当に女性に弱い?)」
書庫で食事をしていたら怒りそうなのに、大谷様は何も言わない。果たしてそれは優しさなのか、それとも左近さんの言う通り女に口を出さないだけなのか。
「(たまに大谷様がよく分からない)」
大谷様、たまには私を怒って下さい。いう事を聞くだけの世話係ではありませんよ?
「……。」
「われを見たところで部隊には戻さぬぞ」
「そ、そういうつもりじゃ」
「ならば、ぬしは何が不満か」
「不満など……」
「ないと?」
「な、ないです」
「さようか」
「(私の意気地無し)」
けど、明日からは
書庫でおにぎりを食べるをやめよう。