「失礼する」
軍医に用事があり、部屋を訪れると見知らぬ若い男が驚いた顔をしてこちらを見ていた。
「……はて」
此処は軍医の部屋だと思うたが、われは部屋を間違えてしまったのか? 部屋には軍医である藤吉の姿はどこにもない。そこに居るのは若い男のみ。
「も、もしや、大谷刑部少輔様ですか!?」
「!」
軍医の部屋にいた若い男はわれの姿を上から下まで見た後、突然近寄って来た。ええい、近い。この男は何者だ。
「ぬしは、」
「ああ、失礼しました! 私は藤吉先生の元で医術を学んでいます山寺歩と申します! 刑部様への挨拶が遅れて申し訳ございません!」
「……ぬしは豊臣の軍医か」
「はい! 此度、大阪城に身を置かせて頂いております新米軍医です! 藤吉先生の元でまだまだ勉強する身ではありますが、どうかこの山寺歩をよろしくお願い致します!」
歩という男は「刑部様にお会い出来て光栄です!」と嬉しそうに頭を何度も下げて来た。
「そう何度も頭を下げずともよい」
「申し訳ございません!……あ、それで刑部様はどのようなご用件で此方に? 漢方ですか? 痛み止めですか? それとも他に何か入り用ですか?」
「軟膏はあるか」
「軟膏? もしやお怪我でもされましたか!? 刀傷なら化膿止めの薬も是非!」
少し待って下さい!と歩は薬品棚に向かいごそごそと薬を探し始めた。そして軟膏をいくつか持って来た。
「これはどうでしょう! 蛙の油から作られた軟膏です、匂いは少々独特ですがこの軟膏は即効性があり豊臣の兵士の間でも使用する者が多いです!」
「……。」
歩が自信満々に持ってきた軟膏を見て、大谷が静かに首を振ると、ならばこれはどうでしょう!とこれまた匂いのきつい薬を棚から持って来た。
「……。」
「これもお気に召しませんか? この軟膏もとても良く効く薬なのですが、あとはそうですねぇ女性向けにアロエで出来た軟膏くらいしか」
「それで良い」
「え? ですがこれは女性用に作られたもので、それに少々華やかな匂いがするので男性はあまり好まないのですが……」
「構わぬ、それで良い」
「そうですか、刑部様がそう仰るのなら……是非、この軟膏をお使い下さい。こんな入れ物しかなくて申し訳ないです」
「……。」
歩が渡して来たのは貝で作られた軟膏入れだった。女性用として作られているのかそれは自身の手に持つと似合わないモノだった。
「あ、あの。刑部様? 本当にそれで良いんですか?」
「良い、これを頂く。では失礼した」
そう言い、軍医の部屋を出た。
最後まで歩は納得のいかない表情をしていたが、それについては何も言うまい。確かにこの軟膏は我の手にはとても相応しくない。しかしそれで良い。そもそもこの軟膏は自身が使う物ではない、あの娘に与える物だ。
綺麗な手とはお世辞でも言えぬ、
あの娘へ渡す為に。
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「ふむ……何やら城内に忍んでおるな」
黒の装束を身に纏った軍医・藤吉は高い木の上に立ち、立派な大阪城を見上げた。
「(はてさて、忍び込んだのはどこぞの烏か、鼠か……)」
上手く闇に紛れているようだが、私には誤魔化せん。怪しい気配がだだ漏れである。早急に見つけ、始末せねば……しかしどこに隠れているのか、このまま何事もなければいいが。
藤吉は木の太い枝に足を揃えたまま、ジッと大阪城を見上げた。そしてふと後ろに感じた気配に声をかけた。
「やあ、まだ大阪にいたのかい、武田の猿」
「あらら、何だバレてたの? ったく、相変わらず勘が良いね、軍医サマ。その腕はうちの忍び隊に欲しいくらいだよ」
後ろの木の枝には、迷彩柄の男が闇の霧を微かに纏わせながら立っていた。
しかし、先ほどから大阪城に紛れている何かは猿飛とは違う。てっきり忍び込んでいるのは猿飛かと思ったが、思えばこやつが大阪城内を忍ぶ理由が見当たらない。同盟国である忍びが何故、忍び込む必要があるのか。
「……ふむ、君じゃないな」
「ん? 何の話?」
「分かるか猿飛、何かが忍んでいる」
「え? 大阪城に? 俺様以外で誰かいるって事か、いやでも分かんないなー、俺様もさっき城内をぐるっと巡回してきたけど、怪しい奴は見かけなかったよ」
「……そうか、ならいい」
しかしこのまま忍んでいる鼠を放っておくわけにもいかない。
「猿飛、城内に忍んでおる鼠を見つけたらすぐに処分だ。いや、どこぞの手先の者か聞き出さねばならぬか……うむ、やはり生け捕りにするか、しかし手足くらいなら切り落としても死にはしないだろう、ふむそうしよう」
「おっかない爺さんだなー」
「これも私の仕事だからな」
大阪城の平穏の為さ、その為ならば私は何だってする。忍んでいる鼠の目的が分かっていない今、警戒を解く事は出来ない。久しぶりに私も本気を出す事になるのか、引退はまだ先になりそうだ。歩に軍医の仕事を任せているとはいえ奴はまだ若造、私が隠居するのはいつになるのか。
「そういえば伊達が遠出の準備をしていたよ、まさかまた大阪に来るとは思えないけど、一応アンタに報告」
「伊達が? ただの気まぐれの旅だと思いたいが、あの竜の若造は何を考えているのか想像がつかん」
「戦でもしようって来たらどうするよ?」
「それならば私は我が主君に従うまでさ、竜の首を取れと言うのならば私は迷わず目的を果たそう」
「怖いねえ、おっかないねえ」
「戦になれば同盟国である武田も伊達と戦う事になろう、自分には利害関係のない他人と思わぬ事だぞ猿飛」
「あー……それは面倒な事に、でもうちの若旦那は伊達相手なら燃え上がるだろうなあ」
「蒼紅の戦いか、それはいつまで経っても避けられんようだな」
「……はあ、どうなる事やら」
黒い影二つは、再び大阪城を見上げた。悪い予感が当たらなければ良いが、と藤吉は呟いた。