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シーンと張り詰めた教室の中、数学教師の声とその手に持つチョークが黒板を叩く音や、生徒が教科書を捲る音とシャーペンを鳴らす音だけが響いていた。
あの後俺は結局授業に遅刻し、気まずい雰囲気の中そーっと後ろの扉を開け、『すみません、反省しています。もう絶対に遅刻しません。本当に悪かったと思っているんです。』というオーラを精一杯かもし出しつつ腰を90度に曲げて謝罪をし、なんとか授業に参加したのだが・・・。
なんとも言えない張り詰めた空気。教卓に背を向け、黒板に公式と解説を書いている数学教師の背中から発せられる静ながらピリピリしたオーラに生徒達は皆緊張して必死に前を向きノートをとっていた。
比較的若い教師が多い中、この数学教師は教師歴20年以上になるベテラン教師。
普段は優しく、生徒達におじいちゃん先生と呼ばれ親しまれているが、授業に関しては別で、特に遅刻に関してはとても厳しいのだ。
キーンコーンカーンコーン
「今日はここまでです。皆さん、くれぐれも次の授業までに宿題を忘れないように。」
午後の授業の終了を知らせるチャイムがなってもシーンと緊張した教室内に、初老の数学教師の穏やかな中に厳しさを持った静かな声が響いた。
授業終了の合図に俺は肩の力を抜いた。
知らず知らずに溜めていた息を吐く。
「はぁ……。」
「特に、最近弛んでいる方がいますね。誰とは良いませんが、気を付けてくださいね。でないと私も少し考えるようです。では失礼します。」
「……!!!」
最後にちらりとこちらに視線をやり、数学教師は教室を出て行った。
数学教師の眼鏡がきらりと光った気がする。
「た、たすかった〜……。」
今度こそ全身の力を抜き、机にだらりとうつ伏せになる。
それを見ていたクラスメイトは
「どんまい!」
「ついてないなあ清水、よりに寄っておじいちゃん先生の授業に遅刻するなんてなー!」
「これであと少し若ければ数学教師×高校生萌えなのに……。」
「俺、近いうちに清水がじいちゃんの罰則くらうに500円。」
と、口々にからかいや労いの言葉をくれる。
くそー、人ごとだと思って……。
「啓ちゃん、大丈夫?」
「あんちゃーん……!」
俺が項垂れていると、クラスメイトであり親友のあんちゃんこと山内庵寺が心配そうな顔で机の前に立っていた。
同じ労いの言葉なのにあんちゃんが言うと何故こんなにも違うんだろうか。
あんちゃんの癒しオーラに感極まった俺は彼の腰にひしっと抱きついた。
優しく頭を撫でてくれる手にほっとする。
「ねぇ、どうして遅刻したの?」
「えっ、うーん。なんでだっけ?」
「えぇっ!僕に聞かれても・・・覚えてないの?」
「いや、えーと……あ!わかった時間が俺を置き去りにしたんだ!」
「ぶふっ……くすくす」
「ちょ、笑うなよー!」
「わ、笑ってな……っあはははっ!」
俺の滑りまくりの寒いジョークにあんちゃんが笑う。
いつも控えめで大人しく、優しいあんちゃんが笑うと癒し効果抜群だ。自然と俺も笑顔になった。
***
「帰ろうか、啓ちゃん。」
帰りのHRが終わると、あんちゃんが声をかけてくる。
そのまま頷こうとして顔を上げると視界の端に窓ガラスが見えた。外は霧雨が降っている。
昼に別れた松本の事を思い出す。
松本、確か裏庭だったよなぁ。
雨降ってるし……もう戻ってるかも。でも、もしまだ居るとしたら……ほっといたら風ひくよな。
居なかったら戻れば良いし……うん。
「あ、うん。おれちょっと寄り道するからごめん。先帰っといて?」
「えっ、僕も一緒にいくよ。だめ?」
「でも外だよ?雨降ってるけど、いいのか?」
「うん。どこいくの?」
「ありがとうな、ちょっと裏庭。」
「もしかして松本君?」
「おうっ!」
教科書を鞄につめながら勢いよく俺が頷くと、あんちゃんは関心したような呆れたような声で「啓ちゃんは本当に好きだねぇ……。」と返す。
「へへっ、俺の松本への気持ちは海よりも深く谷よりも……あれ?海よりも熱く……?なんだっけ?」
「……ぷっ、言えてないよ。」
「おいっ!ここ笑うとこじゃないぞ!」
「ごめんごめん、とにかく啓ちゃんは松本君の事がすごく好きなんだね。」
「おうっ!」
「じゃあ、雨が強くならないうちに行こうか。」
あんちゃんがにっこり笑った。
松本への気持ちを誰かに知ってもらったり、理解してもらう事はいつでも嬉しい。それが親しい人なら尚更。
その事に浮かれてほかほかしていた俺は、その笑顔の奥にひっそりと寂しさが浮かんでいる事に気付きもしなかった。