基治と乙和の第二子として生を受けた佐藤四郎忠信は、生まれたときからよく眠り、あまり泣かず、そして滅多に笑わない子だった。
ある意味手の掛からない子であったが、だからと言って感情に欠けていた訳ではない。
兄の三郎と同じく、実直だが優しい子だと、親馬鹿かも知れないが思っている。思ってはいるが、一見冷静に見えてしまうらしい。
兎に角、そんな息子もすくすくと成長してゆく。
そうして元服を迎える頃にはすっかり定着してしまったのだ。
所謂『無愛想』が。
それから、もう一つ。
乙和が『それ』に気付いたのは元服の後だったと記憶している。
それ即ち、息子が『自分に好意を持つ女を敬遠している』のだと。
その容貌と立場から元々目立つ子ではあったが、元服を控える頃から環境が変化したらしい。
元服すれば一人前の男として扱われ、妻を迎える。
正室にはなれなくても、寵愛を受けた側室になら身分などあまり大した問題ではない。
──つまり、そういうことだ。
見知らぬ女からの付け文。
鍛錬場には女の声で耳を塞がねばならぬほどで、一部に柵を張り巡らせなければ収拾が付かなかったとか。
町に出れば娘達の集団が何処までも付いて来るので、家人達が追い払うのに苦労したとか。
城に帰り部屋で休もうとしても、望んでもいない先客が一糸纏わぬ姿で褥の上にいたとか。
連日明らかに怪しい贈り物が届けられたり(本人に届く前に家人が排除したが)。
その他諸々。
それに大変な被害を受けたのは本人達らしい。
”らしい”と付けるのは、後に志津の息子(平次)が漏らしたからであり、直接聞いた話でないからだ。
その凄まじさは、傍に付いていた平次達ですら引いたという。
矜持が災いしてか忠信自身は決して愚痴を零したりしなかった。
だが彼が、疲弊し、辟易し、嫌悪するのも致し方ないだろう。
実際に似た経験を持つ乙和には理解出来た。
世の中には、好色でなくとも遊びと割り切って楽しむ男が多いというのに。
乙和の息子達は何処までも生真面目で堅物らしい。
仕方ないが、一生涯このままでは佐藤家としても困る。
一国を担う一族の者として、子を成すのは義務なのだ。
特に、ひとたび戦が起きれば城を長く離れてしまう。時期的に遅すぎる位なのだから。
いい加減無理矢理でも正室を迎えて貰わねば。
その様な事を夫が口に出していた、丁度その頃だった。
藤崎花音──『楓』が、忠信に連れられて、大鳥城にやってきたのは。
「‥‥‥そうそう。確か”ばかっぷる”とは、仲睦まじ過ぎて周りの目に毒、という意味でしたわね」
どちらがばかっぷるやら、などと思うと忍び笑いが零れる。
二人こそ、乙和達など足元にも及ばぬ”ばかっぷる”ではないか。
現に、今だって。
「──ひゃひゃひょふ!」
言葉の応酬では決着がつかないからか両手で柔らかな頬を引っ張りだした忠信と、引っ張られて涙目でやり返そうとするが身長差でうまく手が届かない楓。
「何?俺の名前くらいちゃんと言ってよ」
「はなひぇー!」
「嫌。しかしよく伸びるな。肉付きが良くなった?」
何ともまあ女に対して失礼な事を。
そもそも紐の存在はどうでも良いのか。
いや、紐なんて、唯の口実に過ぎないのだろう。
目一杯、全力で、力任せに‥‥それも如何と思うが、妻を愛でる為の口実。
「うふふ、本当に捻くれた子ですこと。愛想を尽かされぬ様気を付けろと今度忠告すべきかしら?」
何処の世に、恋しい‥‥それこそ脇目も振らず求めた妻の頬を引っ張り、挙句笑う男がいるのか。
楓は本当に良いのだろうか、あれで。
息子が溺愛しているには違いないけれど。
───予感は確かにあった。
さらりと流れる砂の海で一瞬だけ輝く宝玉を目で捉えるほどの、小さく微かな予感。
新たな佐藤家の娘に興味を示した従兄から『御曹司の話相手に』と文が届いたとき。
平泉行きを彼女が了承したとき。
息子が微妙な顔で同行を申し出たときに。
出立の前夜、挨拶に訪ねてくれた楓を見て。
この娘の顔を見るのは最後ではないか‥‥‥と漠然と思った。
御曹司という人物像は夫や従兄、それに息子達からよく聞き及んでいた。
人知れず、季節毎に文も交わしている仲だ。
乙和自身も昔に一度会っている。
懐が広く、女性を大切にする人。
多少女に弱く浮気の不安は拭えないが、彼ならば、こうと決めた女を無碍にはすまい。
それに、楓ならば。
あの娘の物怖じしない性格は、きっと気に入られる。
女らしさに欠けると志津がよく叱っていたが、女房達から陰で恐れられているあの志津ですら懐柔させてしまう娘なのだ。
御曹司も恐らく惹かれる。
多少の義親馬鹿は含むものの、本気でそう考えての平泉行き決行だった。
従兄・藤原秀衡が楓に何を告げたのか。
楓が犠牲にしようとしたものが何だったのか。
平泉で何があったのか。
裏で起きたその一切を乙和達が知らぬまま。
平泉から婚姻を報せる文が届いたのが、春を告げ始める頃。
──楓が、消えた。
「ところで、いつまで覗いているんですか母上」
「え?」
「‥‥‥あらまあ」
不意に割り込んだ声に、乙和がぱちりとまばたきを一つ。
そう、この声だ。
懺悔や後悔の闇に落ちかけた思考を、一掃する澄んだ声音。
「お、乙和さんっ!?」
「お邪魔でしたかしら?」
「い、いいいつからっ」
語尾に機嫌が宜しい時に使う「はあとまぁく」とやらをつけて発音してみた。
ちなみにその紋様を紙に書いて教えてくれたのは、現在すっかり混乱している本人だ。
「楓、紐はもう諦めたのですか?」
「‥‥え?そんなに前から見てたんですか!?」
「うふふ、つい楽しくて」
うわぁ、と羞恥に染まった娘が頭を抱えながら忠信を横目で睨んだ。
「忠信もまさか、ずっと気付いてたの?」
「俺は武士だよ。まあ、武士じゃなくてもあの距離なら気配に気付かない方がどうかしてるんじゃない?」
「もう!だったら言ってよ恥ずかしい」
「ああごめん、つい楽しくて」
反省の欠片もない口調で母と同じ台詞を吐くのは、ただ単に虐めたい精神からくるものだ。
‥‥‥本当に、今の息子のどこが『氷の君』なのだか。
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