2010/05/10
大鳥城図

大鳥城図

 飯坂温泉の西側にそびえて見える比高100mほどの舘山が大鳥城の跡である。城址は現在舘ノ山公園として整備されている。

 県道399号線の飯坂トンネルの上にある飯坂球場から、西側の山の方に進んでいけば、城の大手口に出る。そこにも駐車場があり、遊歩道が付けられているのだが、山頂まで車で進んでいくことも可能で、本丸の周囲にも2ヶ所に駐車場が設置されている。

 山頂部の長軸100mほどの不整形の郭が本丸である。内部はかなり広い平坦地となっているが、土塁や堀、虎口などの技巧的な構造は見られない。やはり平安時代の城という古さゆえであろうか。

 本丸の周囲下には道路がぐるりとめぐらされているが、これが、かつての腰曲輪の名残であろうか。本丸の北側下には駐車場とトイレのある平場があり、その道路縁に「土塁跡」の標柱が立っている。実際にここに土塁が存在していたとしたら、この駐車場のある場所は内枡形のような構造であった可能性がある。となると「古い形式の城」という評価の訂正の要がありそうだが、実際の所、旧状がどのようであったのか知る由もない。

 また、この東100mほどの所に庖丁塚がある。現在の車道はこの辺りに上がって来るようになっている。
 庖丁塚には「日本料理発祥の地」という説明がある。その説明によると、日本武尊の跡を慕ってこの地にやってきた景行天皇が、この地で魚料理を供応してもらい、料理した人が大膳の官職を授けられたことを記念したものであるという。しかし、景行天皇は本当にこのような場所までわざわざ行幸して来たのであろうか。なんとも信じがたい話である。

 本丸の西側に、道路を挟んで矢倉跡がある。こちらは10m×20mほどの平場で、確かに矢倉を置きそうな場所であるといっていい。内部は2段に削平されている。また、周囲には土塁がめぐらされている。
 この矢倉跡の西側には、深さ6m、幅10mほどの堀切が残されている。この城の遺構としては最大のもので、明確な堀遺構としては唯一のものである。ここにだけ明確な堀があるのが、城の全体構造としては違和感を感じるところだが、本来はあちこちにあった堀が、後世の畑作化で埋められてしまっている可能性もある。
 この堀から西側にも平場は続いているが、城域はこの堀をもって区画されると見てよいだろう。

 この城には明確な井戸遺構が2箇所に見られる。1つは本丸の北側下にある西水の手であり、もう1つは、一の砦下にある東水の手である。いずれも、井戸の直径は60cmほどと、それほど大きなものではないが、きちんとした石組みを伴っているのが印象的である。この井戸は平安時代のものというよりも、もっと後代のものであるような気がする。

 現地案内図によると、本丸から東側の下には、一の砦、二の砦、三の砦といった砦群の存在が示されているが、実際には、段々の曲輪群と見るべきものである。このうち一の砦と二の砦は尾根を削平しただけの小規模なものであるに過ぎない。三の砦は、この2つとは趣を異にしており、長軸60mほどと、まとまった広さを見せている。しかし、切岸などの造作は甘くい。やはり古い城ゆえんのものであろうか。
 
 大鳥城は平安時代、奥州藤原氏に属した佐藤氏の居城であったと言われている。つまり、平安時代の城というわけである。実際、城の構造には目新しい感じがせず、古い時代の城館といった印象が強い。ただし、平安時代以降も佐藤氏もしくはその他の勢力によって使用されていた可能性はある。

画像と記事は余湖くんのホームページから転載させていただきました。

   
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