広大な大伽藍に同じ宗門の僧がひしめいている。衣擦れや囁き声の絶えぬ中、天海が姿を現すと途端に堂内は静まり返った。天海は真っ直ぐに主祭壇の前まで進むと、振り返って周囲を見渡した。集まった僧の数は優に三百を超えている。これなら生贄として申し分ない、と天海は内心ほくそ笑んだ。
 天海の命を狙い現れた幸村を亡き者にしようとする試みは全て失敗に終わった。法会の日を迎えるまで、いつ自分を狙って乗り込んでくるかと気が気ではなかったが、結局この時まで姿を現さなかった。法会が終わり、僧の命と引き換えに信長を甦らせれば後はどうでも良い。もう失って困るものは何一つないのである。
――――もうすぐですよ、信長公……後少しで再び貴方と……!
 祭壇の頂に置かれた信長の兜に天海は目を細め、舌なめずりをした。
そして開かれた時と同じ重苦しい音を響かせながら正面扉が閉ざされ、頑丈な錠前が掛けられた。
 皆がそれに注視していた隙に佐助は床下から格子を押し上げると素早く這い出て側祭壇の影に身を潜め、用心深く内部を観察した。壁面の腰高窓だけでなく広い天窓からも差し込む外の光で堂内は思っていたより明るい。出入り口はあの正面扉のみである。そして目についたのが四隅に設置された大きな香炉だった。その形には見覚えがある。途端に嫌な予感に襲われたが、今それを破壊して騒ぎを起こすのは得策ではない。まずは手筈どおりに動くのが先決だ――――佐助は正面扉に向かおうとした。しかし扉までは結構な距離がある。僧らは全て同じ色の袈裟に身を包んでおり、そこを迷彩の忍衣の佐助が誰にも気づかれず扉まで辿り着くのは到底不可能と思われた。
 佐助が二の足を踏んでいると、僧の一人が佐助が潜んでいる祭壇に供物を置きに近づいてきた。佐助はその僧を素早く祭壇の裏へ引き込み腹を打って気絶させると、手早く袈裟を剥ぎ取りその身に纏う。そして佐助は音もなく扉へと近づいていった。

 伽藍の外の広場では、兵長が部下の見回りの報告を受けていた。
 前任者の死後その役職に就いたばかりの新しい近衛兵長である。前任の近衛兵長は山中で幸村とまみえ命を落とした。彼だけではない。あの一戦で数多の兵が死傷し、天海の私兵はかなりの兵力を殺がれていた。
 報告によると、ある一角を巡回した兵の一人が行方を眩ましていると言う。漆黒の鷹が飛ぶ姿を見たという者もいた。先日の一戦でたった二人で数百の兵を打ち負かした、大僧正の命を狙う者の存在は聞き及んでいる。その者達が漆黒の鷹を連れているらしいことも。兵長の顔はみるみるうちに青褪めていった。ここに乗り込んで来られては、自分達では一溜まりもないだろう。大伽藍の扉を守り殉死するか、役職を捨て逃げ出すか――――兵長は葛藤した。

 どうにか僧らに不審がられることもなく伽藍の扉の前に着いた佐助は、今から開けなければならない錠前に目を落とした。それはこれまで目にしたことない形の錠で、佐助の勘はそれが手強い代物だと告げている。しかしここまで来てしくじる訳にはいかない。佐助は大きく息を吐くと、取り出した苦無の刃の先端を後ろ手に鍵穴に差し入れ、注意深く周囲に気を配りながら手探りで錠前の内部を探った。
 そうして暫く錠前に取り組んでいたが、どうも上手くいかない。中の仕組みが、苦無の薄い刃先で操作するにはあまりにも頑丈な構造なのである。
 そうするうちに天海が法会の開始を告げ、四隅の香炉に火が入り、僧らは一斉に前を向き読経を始めた。天海を含め皆祭壇を向いている。好機である。香炉から怪しげな香りが立ち昇る。佐助は漂ってくるその煙を吸わぬよう服の襟元を鼻先まで引き上げ、額の汗を手の甲で拭うと扉に向き直り、再び錠の具合を探る。
 しかし、この広い伽藍に一人だけ、祭壇に顔を向けていない人物がいたのである。天海の身辺を守る警護兵の一人が僧衣を纏い、その下に刀を隠して堂内に目を走らせていたのだった。彼は巨大な正面扉の下の暗がりに見慣れぬ人影を発見し目を瞠った。その人影はこともあろうに法会が始まっているにも関わらず祭壇に背を向け立っている。警護兵は読経を続ける僧の端をゆっくりと扉へと近づいていった。

 幸村は大伽藍前の広場へと馬を乗り入れた。そこで手綱を引き締めると、伽藍の扉を守るように展開している警護兵の隊列を見つめた。その兵らの顔が、幸村の姿を認めた途端に凍りついていくのが見て取れる。不安げに互いの顔を見合わせる者もいた。
 幸村は馬を進めた。静まり返った広場を横切り、隊列から少し距離を取って立ち止まる。伽藍の扉は閉ざされている。だが佐助が忍び込んでいる以上、間もなく開かれるだろう。幸村は警護兵一人一人の顔を見渡し、静かに言った。
「戦意のない者は立ち去るが良い。無駄に命を落とすこともなかろう」
 兵長はごくりと生唾を飲んだ。今にも逃げ出したい衝動に駆れらるも、どうにか思いとどまった。到底自分が敵う相手とは思えない。しかし大僧正の怖さも十分知っている。表向きは穏やかに装ってはいるものの、近しい者にだけ垣間見せるその素顔は冷徹で残忍、とても僧職にあるとは思えない人物なのである。ここで自分が逃げ出せば、自分だけでなく一族郎党にまで累が及ぶだろう――――兵長は意を決して口を開いた。
「曲者を通す訳にはいかぬ。直ちに馬を降り、刀を捨……」
 その語尾は幸村に正面から見据えられ声にならなかった。幸村はゆっくりと馬を進め始める。隊列は動かなかった。しかし兵らの手にした刀は徐に降ろされていった。
「そ、そこで止まれ!」
 兵長が叫ぶも、幸村は止まらない。兵長は自棄になって刀を振りかぶり、幸村に突進してくる。幸村は刀を構え、兵長の突撃を軽く跳ね返すと刀の峰でその肩を打ちつけ、兵長は地面に転がった。すぐさまその喉元に切っ先を突きつける。兵長は呻いた。格が違いすぎる――――降参だという風に兵長はかぶりを振った。そして幸村が残りの兵に目を向けると、隊列は静かに左右に開き、大伽藍の入り口への道を開いた。
 幸村は馬から飛び降りると、扉に向かって歩き始めた。

 扉の反対側では佐助が一心不乱に錠前に取り組んでいた。
 読経の声はいつしか苦しみにもがく呻き声へと変わっていった。香炉の効果が表れ始めている。しかし今はそれに構う余裕はない。
 扉の向こうから喚き声と刀の交わる音が聞こえてきた。そして佐助のよく知っている気配。すぐそこまで幸村が来ている。そして気が逸る佐助の背後から、刀が鞘から抜かれる微かな音がし、慌てて振り返ると警護兵が刀を振りかぶっている。佐助は半ば捨て鉢になって力を込めて苦無の先を一押しした。
 かちりと音を立て錠前が開いた。佐助は喜びの声をあげ横に飛び退り、振り下ろされる刀を避けながら閂を引き抜いた。と同時に弾けるような勢いで扉が左右に開かれる。幸村が蹴り開けたのである。はずみで扉の片側が警護兵の頭を殴りつけるかたちとなり、彼は床に叩き倒された。幸村は大伽藍の中に足を踏み入れる。
「旦那!香炉を破壊するまで息を止めときな!」
 そう言って佐助は袈裟を脱ぎ捨てると両手で二つの大手裏剣を放った。手裏剣は弧を描いて四隅の香炉を割り、佐助の手元へと戻ってきた。そして佐助は煙玉を床に投げつけ炸裂させる。たちまち堂内に解毒作用のある煙が充満していき、香炉の毒素を中和させた。
「片倉の旦那は?」
「政宗殿と共に東の路地に。……佐助、よくぞ扉を開いてくれたな、礼を言う。後は俺にやらせてくれるか」
「……了解」
 悲愴な覚悟の浮かんだ双眸に、佐助は頷くより他なかった。
「一旦片倉の旦那と合流してまた戻ってくるから。それまで……死ぬなよ、旦那!」
 佐助は伽藍を走り出ていった。
 幸村は静かに一歩一歩進んでいく。正面には豪奢な祭壇があり、その前に、幸村と政宗に災いをもたらした張本人である天海、いや明智光秀が立っている。幸村は憎悪の篭る眼差しで光秀を見た。光秀はというと、弛緩した表情で愕然と立ち尽くしている。光秀はまだ事態が飲み込めずにいた。この日の為に苦労して準備を整えてきた。全ては再び信長とまみえる為である。あと少しで香炉に仕掛けた結界が作用し僧らの命と引き換えに信長が甦る筈だった。しかしそれは突然現れた者によって阻止され、光秀の野望は打ち砕かれた。
「信長公……信長公……」
 壊れたようにかつての主君の名を繰り返し呟く光秀に向かって幸村は歩いていく。その途中で幸村は弾かれたように足を止めた。突然外からけたたましい半鐘の音が鳴り始めたのである。幸村が窓に飛びつき外を見ると、そこには櫓があり、先程広場で打ち倒した兵長が急を知らせる半鐘を打ち鳴らしているのだった。
 幸村は小十郎と別れる際の遣り取りを思い出す。今頃は既に佐助は小十郎と合流しているだろう。半鐘の音を合図に実行される手筈にしてきたこと、それは――――幸村の体は激しい恐怖に凍りついた。
「違う!佐助!片倉殿――――!」
 鐘の音を掻き消そうとするかのような幸村の絶叫が堂内に響き渡った。



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2011.12.05





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