佐助は目にも止まらぬ速さで山中を駆け抜けた。
佐助は優れた忍である。常人ならばその姿さえ視認できず、ただ一陣の風が吹き抜けたようにしか感じられないだろう。
脇腹の傷が痛んだが、それを気にしている暇はなかった。すでに辺りには菫色の夕靄が立ちはじめている。
なぜ日没まででなければならないのか。それは佐助には判じかねたが、幸村のただならぬ様子から、何か深い事情があるのだろうと察せられた。
あれ程まで切羽詰った様子の幸村は、過去の長い付き合いにおいても見たことがない。余程、この鷹は幸村にとって大切な存在なのだろう。もしあの時、信玄が病に伏しその命の灯火が消えようとしていたあの時、幸村が傍にいたならば、あんな顔をしたのだろうか―――― そう思ってから佐助は小さく首を振ってその思いを打ち消した。今は過去を振り返っている場合ではない。
鷹がひと声、弱々しく鳴いた。
「旦那がいなくて不安かい。でも安心しな、じきにお前を助けてくれる人に会える筈だ」
佐助は山肌に目を走らせ、僅かに目を瞠った。山の高みに、幸村の言っていた庵らしき建物が夕日を浴びているのに気がついたのである。庵と呼ぶには立派なその建物は、武家屋敷を小さくしたような風情だった。
「ほら、ちゃんと日が暮れる前に着いただろ。さすが俺様だね」
佐助は再び鷹に目をやった。べっとりと血を滲ませた羽の付け根に刺さっている矢は、その小さくて頼りないからだに比べひどく大きく見える。
哀れに思った佐助は頭を撫でてやろうとして手を出した。しかしその途端、鷹はその鋭い嘴で佐助の指を突いた。
「いててっ!……そうかい、真田の旦那にしか気を許してないってわけかい。気位の高い奴だよまったく」
そう腹立たしげに言ってみせたものの、佐助は内心安堵していた。この元気があれば助かるだろう。
そして漸く庵の前に辿り着いた佐助は、頑丈そうなその木扉を叩いた。その音に驚いたのか、何羽かの雀が地面から飛び立った。
暫く待ったが中から返事はない。業を煮やし再び叩こうと手を上げるのと同時に、扉が開いた。
中から現れた人物を見て佐助は息を飲んだ。そこにいたのは、佐助のよく知っている人物だった。 “竜の右眼”の二つ名を持つ、奥州伊達軍の副将――――片倉小十郎だったのである。
小十郎もまた、突然現れた佐助に驚いていた。
「てめえ、猿飛じゃねえか。こんなところまで何しに――――」
そこまで言って小十郎は佐助の抱えた鷹に目を留めた。
「その鷹は、まさか……!」
「そのまさかだよ。真田の旦那に託されたんだ。あんたならこの鷹を助けてくれる、って」
小十郎の顔から瞬く間に血の気が引いていくのがわかった。幸村といい小十郎といい、この鷹には余程込み入った事情がありそうだ、と佐助は思った。
この漆黒の羽を持つ隻眼の鷹の負傷は、冷静沈着な小十郎を狼狽させるほど相当に切迫した事態なのだろう。
「とにかく中へ」
促されるまま佐助は中に足を踏み入れる。中は質素なつくりだが手入れは行き届いているようだった。そういえば、建物の脇に小さな畑があったのを佐助は見ていた。庵内に他の気配がないことから、小十郎がここに一人で住んでいることが窺えた。
ついて来い、と顎で示して小十郎は足早に奥へと進む。佐助は鷹を抱えたままそれに従った。
奥の一室に入った小十郎は手早く布団を敷き、佐助から鷹を受け取るとその上に鷹の体をそっと横たえる。
「なんか手伝おうか?」
「必要ねえ。悪いがちょっと出ててくれねえか」
後ろから鷹を心配げに覗き込む佐助に向けたその言葉からは、口調の穏やかさとは裏腹に拒否を許さぬ厳しさが感じられる。
人間ならともかく、鳥の手当てなどこれまでにした試しがない佐助はおとなしくそれに従い、部屋を出た。
「なんという……おいたわしい……」
閉めた障子の向こうから小十郎の声が漏れ聞こえた。鳥相手とは思えぬ、目上の者に対するような言葉遣いに佐助は首を捻った。
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2011.10.03