日の出時。男は小高い丘の上から眼下に広がる町をじっと見下ろしていた。
夜が明ける前からじっとここに待っており、そして今、漸く長い夜が明け始めたところなのである。
 険しい目で町を見下ろすその男は、百戦錬磨の猛将、真田幸村。といっても幸村が戦場で敵兵を震え上がらせる甲斐武田の虎の若子として名を馳せたのも遠い過去の話だ。今は各地を放浪するただの浪人でしかない。
 幸村は、東から段々明るくなってきた空と、どこからともなく湧いてくる白い朝霧をじっと見つめていた。
 やがて霧が割れ、遠くに江戸城が見えてくる。眩い朝日に彩られた城郭は黄金色に染まり、今となっては戻ることの叶わぬ上田の城を思い起こさせ、一瞬、幸村の胸に痛みにも似た望郷の思いが走って消えた。
 上空から一羽の鷹が舞い降りる。幸村が腕を差し出すと鷹は躊躇いなくその腕にとまり、それを見て幸村は目を細める。
 この夜明かしを繰り返す日々も近く終わりが訪れる、それともなんらかの答えが出る────とうに希望など失くした筈なのに、ほんの僅かな望みを捨て切れずにいる自分に気がつき、陰のある笑みを漏らすのだった。



 息を殺し、身を潜める。それはその男の得意とすることだったが、この時は違った。
斬られた脇腹が焼けるように痛み、呼吸は荒くなる一方で、何より点々とついてくる己が血痕が忌々しくも追っ手に自分の居場所を知らしめている。
 男にしては珍しく、というより初めて下手を打った。暗殺に忍び込んだ寺院で衛兵に気取られ交戦となり、不覚にも脇腹に深手を負い、地下牢に放り込まれた。幸い手枷の類はなく、錠前を外すのは男にとって容易であり、抜け出したは良かったものの、すぐに追っ手に追われる羽目に陥ったのだった。
 町外れの建物の陰に隠れ、壁に背中を預けた。追っ手の殺気立った声が足音と共に近づいてくる。血止めを施す猶予もなさそうだ。
遂に追っ手がすぐ傍まで迫り、相打ちを覚悟した男は物陰から躍り出た。と同時に目を剥いた。
 そこには、赤備えの戦装束に身を包み、二槍を携えた――――かつての主が立っているのである。
「だ、旦那……?どうして……」
「話は後だ」
 男はかつて幸村に仕えていた忍、猿飛佐助であった。佐助は唐突に現れた幸村に驚きを隠せない。
 幸村は目にも止まらぬ槍捌きで追っ手を薙ぎ払った。
「何やら追われる者がおると思い来てみれば、よもやお主であろうとはな」
 逃げていく衛兵の背を見送った後、そう言って佐助に笑顔を向けるのは紛れもなく数年前に消息を絶った幸村である。それでも佐助は幻を見ている気分だった。
 と、そこへ遠くから声が聞こえてくる。新たに追っ手がかかったようだ。幸村は佐助に肩を貸し、連れ立って歩き始めた。

 追っ手にはすぐに追いつかれた。怪我人を連れているのだから無理もない。
「お前はここでじっとしておれ。すぐに片づける故」
 幸村は佐助を地面に座らせると、追っ手に向き直り槍を構える。
 幸村を取り囲んだ追っ手がじりじりと間合いを詰め、そして刀を振り上げ一斉に幸村に踊りかかる。しかし佐助はそれを暢気に眺めていた。知っているのだ、雑兵がいくら束になってかかろうと幸村の敵ではないことを。
 案の定、幸村の槍は次々に追っ手を叩き伏せ、残すところあと一人となった、その時だった。
 それまでのんびりと構えていた佐助の顔が一瞬で強張った。その耳が、ある音を拾ったのである。ぎりぎりと、弓が引き絞られる音を。
 そして佐助が手裏剣に手をかけたのと同時に、それまで上空を旋回していた一羽の鷹が真っ逆様に急降下し、離れたところから弓で幸村を狙っていた射手をその鋭い鉤爪で襲った。顔面を切り裂かれたその射手はもう狙撃どころではなくなり、鷹は勝ち誇ったようにその翼を大きく広げ、再び幸村達の頭上高くの空に円を描き始めた。
 幸村は残った一人の喉元に槍先を突きつけ、死にたいか、と問うた。最後の一人となった追っ手は首を激しく左右に振った。恐怖に引き攣れ青褪めたその衛兵は最早声も出ないようだ。
「なれば、戻って大僧正に伝えるが良い。――――真田幸村が現れた、と」
 幸村が槍を引くと、衛兵は転がるように逃げていった。



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2011.09.08






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