月を見る度、彼を思い出す。今宵のような下弦の月なら殊更に。

 いつか彼に言った事がある。青白く冴え冴えとした光を放つ凛とした月はまるで貴殿のようだ、と。
 すると彼は小さく笑い、俺が月ならアンタは太陽だ、と答えた。そしてこう続けた。知ってるか真田幸村、月は太陽を反射して光ってる。太陽がなけりゃ月は光る事すら出来ねェ、つまりアンタは俺にとってそういう存在なんだ――――と。
 そっと指先で唇に触れる。その時交わした口づけの感触が、今でもここに残っている。
 今頃どうしておられるのだろうか。

 彼と最後に会ってから既に二年が過ぎようとしていた。



 先の関ヶ原での戦いで徳川軍が石田軍を下し、数多の兵が夢見た天下は徳川のものとなった。
 その統治下で、敗軍に属していたにも関わらずお館様亡き後の甲斐を任されてからというもの、暫くは国の立て直しに忙殺された。視察や治水工事、外交等、ただ槍を振るっていれば良かった戦乱の世とは打って変わり体より頭を使う事ばかりで何度も音を上げそうになったが、お館様の愛されたこの国の為と身骨を砕き、今や副将となった忍の助力もあり、最近になって漸く内政も落ち着いてきた。

 政務の合間に自分の時間が取れるようになり、ずっと疎かになっていた槍の鍛錬を再開しようと思い立ち、屋敷近くの丘まで出たのは良かったのだが――――久方ぶりに手に取った槍は、重かった。振らずとも察しはついた。確実に腕が鈍っていると。
 既に日輪は沈みかけていたが、以前の勘を取り戻すべく我武者羅に槍を振るった。

 暫くは無心で槍を振るっていたが、やがて交差する槍の隙間に弦月の前立が、蒼の陣羽織が、そして雷を帯びた六振の刀がちらつき始める。異国の言葉を交えて挑発する声が脳内に谺する。
 だんだんと槍を握る手に力が入らなくなり、槍を放り投げその場に座り込んだ。
 虚しかった。鍛錬の意欲など瞬く間に消え失せた。
 はじめはお館様の為だけに振るっていたこの槍だが、いつしか彼に打ち勝つ為に振るうようになっていた。毎度のように決着のつかぬ彼との勝負に次こそは必ず勝ってみせると、鍛錬にも自ずと熱が入ったものだ。
 しかしそれも今は昔。
 戦に明け暮れた乱世などとうに終わりを告げたのだ。この天下泰平の日の本の一体どこでこの槍を振るうというのか。これまで導いてくれたお館様も既に亡く、生涯の好敵手と認めた彼とももう刃を交える事もない。
 耐え難い虚無感に支配され、項垂れたまま立ち上がる事も出来なかった。

 ふと気づけばすっかり夜の帳が下りており、見上げれば月が出ていた。下弦の月の仄白い光が辺りを青に染めている。遮る雲のない弧月はどこまでも冴え渡り、その光はいやでも彼を思い起こさせた。
 遠く離れた北の地で、彼もこの月を見ているだろうか。
 彼とは元より約束を交わすような間柄ではない。戦以外では、時折肌を合わせるだけの関係だった。
 それでもただの欲の捌け口だった訳ではない。口にこそしなかったものの、いつも彼への想いで胸を焦がしていた。その言動や態度から彼の想いも確かに感じ取っていた。
 今思えば、彼と過ごした僅かな時のなんと満ち足りていた事か。目を閉じれば、彼の涼やかな笑顔が鮮やかに脳裡に蘇る。
 今ここにいてくれれば、などと有り得ないと解り切っている事を願わずにはいられない。
 無意識のうちに彼の名が口から零れた。
 するとあろう事か、どうした真田幸村、と答えてくれる声が聞こえる。幻聴が聞こえるとは、気が触れてしまったのだろうか。
 このままではまずいと頭を振って立ち上がり歩き出そうとしたその時、再び背後から彼の声がした。
「おい、呼んだ癖に無視して行っちまうのかよ」
 幻聴にしてはやけに明瞭なその声に恐る恐る振り返ると、そこには彼――――伊達政宗が立っているのだった。

 これは下弦の月が見せる幻か、それとも――――。
 もしや彼は既に鬼籍の者となり涅槃から迷い出きたのでは、などと不吉な考えが頭をよぎる。
 政宗殿、と手を伸ばしかけたその時、漸く察しがついた。身内にいるではないか、他者と瓜二つに化ける術を持つ忍が。
 しかしよりによって彼に化けるなどと悪巫山戯にも程がある。
 興が過ぎるぞ佐助、と咎め睨みつけると彼の姿をしたその者は僅かに片眉を上げ訝しげな顔をする。そのような細かい仕草まで真似られようとは、と驚愕しつつも、偽者になど用はないと言い放ち背を向けた。
 刀が鞘から抜かれる音に再び振り返るといきなり三振の刀で斬り掛かられ、咄嗟に身を引き辛うじて避ける。剣圧で切れた前髪がはらはらと眼前を舞った。
「なぜこの俺を偽者と思うのかは知らねェが、だったらホンモノかどうか確かめてみろ」
鼻先に刀を突きつけられながらその者が顎をしゃくった方を見遣ると、そこには先程放り投げた二本の槍が無造作に転がっている。
 そっちがその気ならその化けの皮を剥がすまで、と地を蹴り槍を手に取りすぐさま振り下ろす。幾度か打ち合った後、その者は刀で槍を受け止め、鍔迫り合いする互いの刃から火花が散った。刀身に迸る電流に目を見張る。
 この感覚は――――頭では有り得ないと否定しつつも、槍から伝わる感覚は間違いなくこの者は彼そのものだと告げている。考えるよりも先に、先程まで胸を支配していた虚無感など跡形もなく消え失せ、燃え盛るような闘志が湧き上がる。
 やはり間違いない。この胸の昂ぶりは彼とまみえる時のみ感じるそれだ。
「Ha, やっとわかったってツラだな」
 そう言って口角を上げた彼は、槍を押し返すと刀を一振りし鞘に収めた。

 彼が、今、ここに、いる。
 手から滑り落ちた槍が地面に転がり乾いた音が響く。
 呆けたように彼を見つめているうちに目の前まで来た彼に肩に腕を回され、その唇が自分のそれと重なった。その唇の感触に、これまで心の奥底に閉じ込めてきた感情が堰を切ったように溢れ出す。
「政宗殿、お会いしとうござった……!政宗殿……!」
力一杯その身を抱き締め、仄かに鼻腔をくすぐる彼の髪の香りの懐かしさに思わず目頭が熱くなる。背に回された彼の手が、宥めるように優しく背を撫でた。

 それから木陰で夢中で彼を抱いた。
 夢を、見ているのではないか。この腕の中に彼がいるなどと、まさに夢のようだ。しかしそれでも構わないと思った。たとえ夢であろうと、彼をこうして抱く事が出来るのだ。
 この二年間の空隙を埋めるかの如く幾度も彼を求めた。
 彼の左肩の真新しい刀傷が気になったが、それを問い質す余裕もなかった。

「じゃあ、せいぜい元気でな真田幸村」
「まっ、待たれよ!」
身形を整えるとたちまち立ち去ろうとする彼を慌てて引き留める。まだ何の話もしていない。聞きたい事、話したい事は山程あるのだ。
「貴殿は何ゆえ今日こちらへ?」
まだ一緒にいたいという思いを悟ってくれたのか、彼はこちらをじっと見つめた後、傍らの岩に腰掛け話し始める。
「アンタ、上田から武田の屋敷に移ったんだな。途中であの忍に出くわさなかったら会えず仕舞いになるとこだったぜ。この場所もアイツに聞いたってワケだ」
ふむふむ成る程と聞いていたが、聞き終えてふと気づいた。これでは答えになっていないではないか。
「某は貴殿が甲斐へ参られた理由を問うておるのだが」
彼の隣に腰掛け再び問うと、彼は口元に僅かに笑みを浮かべこう言った。
「アンタに会いたかった。最後になるかもしれねェと思うと、どうしても……アンタに会っときたかったんだ」
会いたかったと言われた事を喜ぶより先に、彼の言った“最後”という言葉が引っ掛かる。
 ひどく嫌な予感がした。
「最後……とは」
「これから俺は軍を率いて武州に攻め入る。アンタに会うのはこれが最後になるかもしれねェ。 ……そう思い詰めた顔すんな、まだ最後って決まったワケじゃねェしな」
「武州……貴殿、もしや徳川殿を!?」
 関ヶ原の戦で勝利を収めた徳川家康は、征夷大将軍の位を得て居を武蔵に移している。
 しかし彼は関ヶ原では徳川率いる東軍に属していた。同盟を結んだ間柄の筈だ、それが何故――――。
「家康は中央集権的な支配体制を全国に敷くつもりだ。国同士の行き来も禁止しやがった。そして、それに反対した俺に奴は――――刺客を差し向けやがった」
刺客、暗殺――――天下が徳川のものとなり泰平な世となって以来聞いた事もなかった言葉だ。絆を掲げ平らで穏やかな世を謳う天下人本人が、あろう事かそのような血生臭い事をやってのけるとは。少なからず衝撃を受け眩暈がしそうだった。
「この汚ェやり口は家康のそれじゃねェ、側近か何かが独自で動いてるんだろう。Ha, 所帯がでかくなり過ぎて目が行き届かねェんじゃ本末転倒ってモンだぜ。だがそんなのは問題じゃねェ、既にウチの軍の何人も殺られてんだ、I must retaliate for injuries inflicted……!!」
「もしや、貴殿の肩のその傷も……」
「ああ、平和ボケしてたらいきなりの襲撃にこの有様だ。ざまァねェな。……さて、もう行かねェと」
自嘲気味に笑って立ち上がった彼の腕を無意識に掴んだ。彼はその腕を見て少し困った顔をする。
「真田幸村……」
「死にに、行かれるおつもりか……!」
そう問うた声のあまりの悲痛さに我ながら驚いた。
 徳川の兵力はざっと見積もっても優に伊達軍の三倍はある。いくら彼が並大抵の強さではないといえども結果は目に見えている。そしてそれは総大将である彼が一番よく理解している筈なのだ。
 だからこそ、最後に――――俺に会いに来た。
 彼は天を仰ぎ、己が兜に頂くと同じ弦月を暫く見つめた後、こちらを向いた。
「No kidding, むざむざ死にに行ってたまるかよ。取りに行くのさ――――天下をな」
そう言って白い歯を見せた彼の笑顔は、不敵で、不遜で、かつてこの国がまだ戦乱に包まれていた頃に戦場で見せたあの笑顔だった。しかしその隻眼には悲愴な覚悟の色が浮かんでいた。

 彼は掴まれた腕をそっと解き、この場を後にした。
 その背に掛ける言葉も見つからず、ただ黙って見送る他に術はなく、彼の姿が見えなくなってからもずっとその場に立ち尽くしていた。



 それから程なくして、伊達軍が進軍を開始したとの報せが入った。
「では佐助、後の事はしかと任せたぞ」
赤備えの戦装束に身を包み額にきつく鉢巻を結ぶと、自然と気が引き締まる。
やはりこの格好が自分に一番合っているのだろう。
「大将、ほんとに……ほんとに行くの?」
「俺はもう大将ではない。佐助、これからは勝頼殿の支えとなって差し上げてくれ」
甲斐は勝頼殿に任せてある。お館様の実子であり信頼も厚かった勝頼殿の方が俺などより余程跡を継ぐに相応しい。
 国主という立場から解き放たれた今は実に清清しい気分だった。未練など微塵も感じない。
 思えばお館様の跡を任されてからというもの、ずっと無理をしてきた。関ヶ原の戦以来初めてこの赤装束に袖を通した今になってそれを痛感した。
 今はただの一介の武人だ。己を武人と呼べるのがこれ程に誇らしく幸せな事だったとは。
「旦那、ってこう呼ぶのもなんか久しぶりだね。……負け戦だよ、わかってるんだろ」
「無論だ。槍を持て」
佐助はなかなか槍を差し出そうとしない。逡巡しているようだったが、俺が手を出すと渋々といった様子で槍を差し出した。
「旦那、考え直してよ!旦那が行く必要なんて全然ないじゃん!」
「佐助、ここまで来れたのもみなお主のお陰だ。言葉に尽くせぬ程感謝している。これからはその力を甲斐の為に役立ててくれ。これが俺の――――最後の頼みだ」
「旦那……わかったよ。旦那が言い出したらきかないのは俺様が一番よく知ってる。後の事はこの俺様に任せて、行ってきな」
そう言って泣き笑いのような表情を浮かべる佐助を残し、屋敷を走り出た。ぎゅっと目を瞑り、涙が零れそうになるのを堪えながら。
「最後まで、心配の掛け通しであったな……すまぬ、佐助」
そう独り言ちて馬に飛び乗り甲斐を後にした。もう戻ってくる事はないだろう。

 暫く馬を走らせていると、遠くで火の手が上がっているのが見えた。既に戦の火蓋は切られているようだ。馬の腹を蹴り速度を上げる。
 これから、伊達と徳川の戦に乱入する。
 他軍の戦に乱入するのは初めてだ。乱入といえば彼の十八番ではないか。それをこれから自分がやろうとしていると思うと何やら可笑しかった。
 あの日俺は、彼に会った後すぐにこの戦に乱入する事を決めた。
 彼のいない世になど何の未練もない。遠く離れていようと、彼も同じ月を見ていると思えばこそこれまでやってこられたのだ。
 そして、覚悟を決め死戦に赴かんとする彼に俺は羨望を禁じ得なかった。
 俺もまた立ちたいと思ったのだ、戦場に。血と硝煙の匂いの立ち込める焼け野原こそ自分がいるべき場所なのだと悟った。そこを彼と共に駆けられるなら、それこそが無常の悦び――――。
 戦場へ近づくにつれ濃度を増す戦の匂いに胸が躍り、心が昂ぶる。
 俺の乱入に彼は吃驚するだろうか。彼の驚いた顔を想像し、笑った。


 共に駆けようぞ、政宗殿――――たとえそこが、徒野であろうとも。






2011.02.26

【後書】
戦国時代が終わった後を書いてみたくて書いてみたんですが……く、暗い……υ
ちょっと家康が悪者みたくなっちゃいました、すみません。
キレイゴトだけじゃ政治はやってけないんだと思います。
てか筆頭、都合よく現れすぎ(笑)








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