川中島を目指し南下する伊達軍の先陣を切るは奥州筆頭、伊達政宗である。
 政宗は期待に胸を弾ませていた。川中島では武田軍と上杉軍が戦をしている。そこに乱入する腹積もりだった。
 伊達軍の目的はもちろん漁夫の利だが、政宗が目指しているのは両軍の大将ではない。武田の一武将、真田幸村である。
 幸村は互いに腕を認め合った好敵手であり、そして、政宗が密かに想いを寄せる相手でもあった。 政宗は元より戦を好む性質ではあったが、幸村と初めて刃を交えたその瞬間からその魂をも揺さぶる熱さに心を奪われて以来、 武田との戦となると殊更に胸が高鳴り、想い人との逢瀬に出掛けていくようなうきうきした心持ちで戦に臨むのだった。

 ついに合戦場へ到着した伊達軍は、合図とともに一斉に雪崩れ込んだ。政宗はただ一点を目指し馬を駆った。
「真田、幸村ァァァ!」
 最早その赤備えの武将しか目に入っていない。幸村もまた、政宗の姿を認めるや否や砂煙を巻き上げながら一直線に突き進んでくる。 表情が見える距離まで近づくと、政宗は刀を抜き放ち、馬から飛び降りると同時に上段から斬りかかった。 幸村は二槍を交差させそれを受け止めた。
 手を伸ばせば触れられる距離に幸村がいる。その熱い眼差しは政宗だけに注がれている。政宗の心は歓喜に打ち震えた。
 間合いを取り直し、すかさず刀を振るう。打ち合う刃が火花を散らし、剣戟の音が響き渡る。
「今日こそ決着をつけてやるぜ、真田幸村!」
「望むところにござる!」
 そう言いながら勝敗がつかぬのはいつもの事で、互いの腕がまったくの互角であるが故、 他の要因で中断せざるを得なくなるまで一騎打ちが続くのが常である。政宗にとってはそれで良い。 これで終わらせるつもりなど毛頭ない。何度でも幸村との戦いを楽しみたかった。
 しかしこの時は違った。政宗は微かな違和感を覚え、それは打ち合う毎に実感へと変わった。 幸村の槍捌きが、いつもと比べどことなく鈍い。それは幸村の表情にも焦りとなって表れている。 やがて政宗の刀は幸村の槍を弾き飛ばした。討ち取る好機ではあるが、政宗は間合いに踏み込もうとはせず、静かに刀を下ろした。
「アンタ、俺をナメてんのか。本気でかかってきやがれ!」
 幸村は悔しげに上目遣いで此方を見ている。政宗は苛立った。
「この俺相手に手を抜くって事は、ここでその首落とされる覚悟は出来てるんだろうな」
 切先を幸村の首に向ける。幸村は目線を下げ、かぶりを振った。
「決して手を抜こうなどとは思っておらぬ。ただ……」
「ただ、何だ」
 口篭もる幸村に先を促す。
「……雑念が入り、集中できぬのでござる」
「あァ?」
 幸村の返答は全くの予想外で、政宗は戸惑った。その意味を考えているうち、幸村は言葉を続けた。
「政宗殿。某は……これまでのようには貴殿と渡り合えぬやもしれぬ」
「…………」
 返す言葉が見つからなかった。幸村は視線を上げ、沈痛な面持ちで政宗を見た。 幸村の眼差しは何かを訴えている。政宗がその言葉の意味を問おうと口を開きかけたその時、狼煙の音が空に響き渡り、はっと顔を上げた。 武田陣営の撤退合図である。
 幸村は名残惜しげに再び政宗を見たが、何も言わず、踵を返し走り去った。 政宗は納得がいかぬまま、小十郎に声をかけられるまで、その場に立ち尽くしていた。



 奥州へ戻ってからというもの、政宗はずっと幸村のことを考えていた。
 幸村は、これまでのようには政宗と戦えないと言った。これが他の武将であれば、相手が本気であろうとなかろうと討ち取れば良い。 しかし相手は他ならぬ幸村である。 政宗の心を虜にする幸村に会える、そしてその眼差しや闘志が自分だけに注がれるのは戦う時をおいて他にない。 しかしそれが出来ないと言われれば、どうすれば良いのかわからない。 打ち倒してきれいさっぱり忘れるしかないのだろうが、そうするには幸村への執着は強すぎた。
 考えれど考えれど答えは出ない。次に戦場でまみえた時に結論を出すしかない、そう思って政宗は考えることを放棄した。
 そして政宗は幸村との思い出に浸った。 初めて会った時のこと、何度も刃を交えたこと、負傷し一時武田に身を寄せた時のこと、織田を倒すために共闘したこと。 幸村の声や表情、仕草を脳裡に思い浮かべ、胸を高鳴らせ、そして――ふとある考えが頭をよぎった。
「What a marvelous idea……!これしかねェ」
 政宗は膝を打ち、暫く留守にすると一方的に小十郎に告げ、甲斐へと馬を飛ばした。



 政宗は幸村を待ち構えていた。武田道場である。武田信玄には半ば強引に話をつけてある。 猿飛佐助が幸村を連れてくる手筈になっていた。 佐助は政宗に協力することをかなり渋っていたようだったが、政宗にとってそんなことはどうでも良かった。
 遠くから聞こえてきた幸村の雄叫びがだんだん近づいてくる。漢祭りと聞かされ、さぞ燃え滾っていることだろう。 期待に膨らむ胸を高鳴らせ、予め用意しておいた仮面を顔に装着した。

 重厚な扉が勢いよく開かれ、幸村が道場内に飛び込んできた。政宗の計画に呆れていた佐助の姿はない。 政宗にとっては好都合である。
「Good to see you!よく来たな!アンタが真田幸村かい」
 政宗はあたかも初めて会ったかのように幸村を迎え入れた。確かあの時、佐助はこんな風に天狐仮面を演じていた筈である。
 恥ずかしくないと言えば嘘になる。しかしこれ以外に方法が思いつかなかったのだから仕方がない。
 以前、政宗は長篠での戦において銃創を負い、武田に身を寄せた時期があった。 傷の癒えかけた頃、信玄の誘いを受け、幸村とともにこの道場で武田漢祭りなる鍛錬に参加した。 その際の幸村の様子を今でもよく覚えている。 幸村は、普段と変わらない装いに仮面をつけただけの、小十郎や佐助、そして信玄でさえも、当人と気づかなかったのである。 あまつさえ小十郎においては、仮面を外して素顔を晒してもなお別人と思い込んでいた。 そのあまりの鈍さに驚いたのだった。
 幸村との一騎打ちにおける魂のぶつかり合いを至上の喜びとしていた政宗は、幸村にこれまでのように戦えないと告げられ、途方に暮れた。 どうしたものかと考えあぐね、そして苦肉の策を講じた。それがこの漢祭りである。
 仮面をつけた相手を認識できない。 ならばこの場所で仮面をつけて相対すれば、幸村は政宗の正体に気づくことなく試練の対戦相手として全力で向かってくる筈であり、 そうすれば政宗は再び迷いのない幸村と戦える。
 これから始まる幸村との勝負に、高揚感が全身を駆け巡る。全力で来い、そう言おうとしたその時、政宗は異変に気づいた。
 幸村は槍を構えるでもなく、腑に落ちない顔をしてきょとんと此方を見ている。政宗は大いに焦った。予想外の反応だった。 戸惑う政宗をよそに、幸村は不思議そうに口を開いた。
「斯様な場所で何をしておられる、政宗殿。はて、試練の相手は……おらぬようでござるな。帰ってしまわれたか」
 政宗に衝撃が走った。なぜ見破られたのか。もしや仮面をつけ忘れたか、そう思い顔を触って確認するも、仮面はしっかりと装着されている。 想定外の事態に政宗は慌てふためいた。
「仔細はわかり申さぬが、眼帯の上に面をつけられてはさぞ視界が悪かろう。外されては如何か」
 幸村が歩み寄ってくる。正体を気づかれた理由はわからないが、悟られてしまった以上、仮面をつけたままでは滑稽極まりない。 政宗は乱暴にそれを外し、床に投げ捨てた。からからと虚しい音を響かせながら、特注で用意した仮面は道場の隅へと転がっていった。
「……なぜ俺だとわかった?」
「何故も何も、政宗殿は政宗殿にござろう。異なことを申される。それより、甲斐へは如何用で?報せがあれば迎えに参ったものを」
 こんな筈ではなかった。幸村のどことなく弾んだ声が、政宗を更に苛立たせた。
「アンタ、前ん時は武田の忍もオッサンすらも仮面つけてたら誰だかわからなかったよな!?なんで俺だとすぐわかっちまうんだ! 遠路遥々、アンタと戦うために来たってのに!」
 声を荒げた政宗の様子に驚いたのか、幸村は目を見開いた。そして少し考え込んだのち、言葉を選ぶように答えた。
「政宗殿。貴殿は……某にとって唯一無二の存在ゆえ。如何に姿形を変えようと、貴殿を他者と違えることなど決して有り申さぬ」
 そう言って真っ直ぐに政宗を見据えた幸村の眼差しの凛々しさに、射抜かれた心臓は大きく脈打った。俄かに鼓動が速くなる。 先程までの苛立ちは跡形もなく霧散し、政宗は心が満たされていくのを感じた。 計画は失敗に終わったが、自分が幸村にとってそれ程までに特別なのだとわかっただけでも、得られたものは大きい。
「某と戦う為に甲斐まで参られたと……そう申されたか」
「あ?ああ、まァな」
 余韻に浸る政宗をよそに、幸村は言葉を続けた。
「それは、過日の川中島での手合わせが不本意なものであったが故に?」
 政宗ははっと我に返った。そうだった。そのせいでわざわざこんな遠くまで出向いて来たのである。 戦えないにしろ、あの時幸村が言ったことを質さねばなるまい。
「Exactly. アンタは俺との戦いに雑念が入ると言いやがったな。俺が納得できるように説明しろ」
 政宗がそう言うと、幸村は目を伏せた。考え込んでいるのか、迷っているのか。その口許は引き結ばれている。 政宗は幸村の顔を見つめながらじっと答えを待った。
 どのくらいそうしていただろうか、やがて幸村はぎゅっと目を瞑り、大きく息を吐き、そして意を決したように正面から政宗を見た。 視線が交差すると、幸村の両の眼に映った己の姿が見えた。
「貴殿に嘘を吐く訳には参らぬ故……これから某が申すは偽りなき真の心にござる」
 勿体ぶった口上に、政宗は固唾を飲んで二の句を待った。
「政宗殿。予てより某は貴殿に恋焦がれており申す。まみえる毎に想いは募り膨らむばかり。 もはや戦いに集中できなくなる程に、どうしようもなく……政宗殿、貴殿が欲しいのでござる」
 政宗は左眼を大きく見開いた。驚きを隠せなかった。俄かには信じ難かった。 もしや担がれているのだろうか、とも思ったが、真面目くさった顔をその装束の色のように紅潮させた幸村の様子は、 それが偽らざる本心であると雄弁に示している。
 なぜこんな展開になるのか。政宗は困惑した。ただ幸村と憂いなく戦うためだけにここに来た。 互いに全力で戦えればそれで良かった筈だった。
 幸村は真剣な面持ちでじっと政宗を見つめている。答えを待っている。答えなど――わかりきっている。
「Ha, 俺が欲しいだと?笑わせんなよ、アンタが手に入れられるとしたらそれは俺の屍だけだ。 俺が欲しけりゃ俺を討ち取って俺の屍に接吻して犯しやがれ。ま、アンタに俺が倒せるとは思えねェがな」
「…………」
 幸村の悲しげな双眸が政宗の心に刺さる。しかし突っぱねる以外の選択肢はない。それ以上幸村を見続けることが出来ず、政宗は背を向けた。
「次に戦場で会ったら、アンタが手を抜こうが俺は全力でその首獲りにいくぜ」
 ちらりと振り返る。幸村は先程と同じ表情で政宗を見ていた。
「じゃあな、真田幸村」
 軽く右手を挙げ、幸村の視線を背中に感じながら道場を後にした。

 奥州へと引き返す道すがら、政宗は馬を駆りながら何度も何度も頭の中で幸村の言葉を反芻した。胸が熱い。顔が熱い。 ずっと焦がれてやまなかった幸村が、同じように自分を想っていた。 本来なら喜ばしいことである筈のその事実は、政宗の心に鉛のように重く圧し掛かった。 政宗は奥州を統べる立場にある。幸村は敵軍の武将である。たとえ想いが通じたところで、どうにもならない。 密かに想いを寄せ、たまに戦えるだけでよかったのである。その先のことなど望んでいない。
 ただそれでも、余計なこと言いやがってと思う反面、幸村の想いが嬉しかったのもまた事実だった。 冷たくあしらったことに後悔はないが、これからは幸村の告白を胸に抱いて生きていこう、そう思った。



 戦のない日々が続いていた。政宗は、政務に携わっている時以外はやはり幸村のことばかり考えていた。
 次に戦場で幸村と対峙した時のことを想像すると、なんとなく気まずい。 どんな態度を取るべきだろうか。今までどおり戦いを挑んでよいものだろうか。 それであっさり引き下がられては、ましてやないがしろにでもされようものなら、当分立ち直れそうにない。 しかし幸村を放っておいて信玄の首を狙いにいったとしても、当然幸村は立ちはだかるだろう。やはり戦うのは避けられない。 ならば気が乗らぬまま戦うしかない。
 いやもしかしたら。真剣な告白を突き放した政宗のへの想いなどとうに冷め、案外意に介さず戦えるかもしれない。 それならよいが、いやそれはそれで何やら淋しい気がする。
政宗の思考は堂々巡りを繰り返した。

 そんな折、武田から使者が来たと報せが入った。途端、嫌な予感がした。
 使者の名もきかぬまま、応接の間へと足を運んだ。政宗の予感は的中していた。
「政宗殿!お久しゅうござる!」
 端座して待っていた幸村は、政宗の姿を認めた途端明るい笑顔を見せる。是非もなく心を惹かれてしまう。これではいけない。 政宗は高鳴る胸を鎮めようと一度大きく深呼吸し、口許を硬く引き結んだ。
 信玄の名代としてやって来た幸村の正面に座し、差し出された書状に目を通す。同盟の申し入れだった。 個人的な事情から暫くは武田との戦を避けたかった政宗にとっては渡りに船である。
 軍議にかけ正式な返答は後日書簡で届けさせると約束し、さっさと帰れと言おうとしたその時、
「政宗殿。某、暫し此方へ滞在する所存にて、よろしゅうお頼み申す」
予想外の要望に政宗の口が大きく開いた。
「戦以外で他国へ参る機会など滅多にござらぬ故。お館様のお許しも得ており申す」
「……アンタ、観光気分かよ」
 目を輝かせて言う幸村は、政宗の呆れ顔も意に介さないようだった。 武田道場で会ってからまだひと月足らずしか経っていないというのに、あの時のやり取りなどとっくに忘れてしまっているのだろうか、気にする素振りは一切見せない。 その真意は計り兼ねるが、武田には以前伊達軍が世話になった恩がある。暫く滞在したいと言う幸村を無碍に追い返す訳にもいかない。 不承不承、受け入れるほかなかった。
「では早速、手合わせを!」
 幸村は傍らに置いた槍に手をかける。政宗はますます幸村のことがわからなくなった。 政宗への想いを吐露し、戦いに集中できぬ程だと言った筈ではなかったか。 それなのに戦いを挑んでくるということは、政宗のことなどとうに吹っ切れているということである。 突っぱねたのは自分であるにもかかわらず、面白くなかった。
「……Just leave us alone」
 槍を手にし今にも立ち上がろうとする幸村を制し、政宗は小十郎含む居合わせた重臣すべてを下がらせ、二人きりになると幸村に近づいた。
「アンタ、どういうつもりだ」
 部屋の外に漏れないよう小声で問うた。意図が通じなかったようで幸村は訝しげに小首を傾げる。
「あの道場で俺に言ったのは何だったんだ。戦いに集中できないとかなんとか抜かしやがっただろうが。 なのに自分から手合わせしろたァどういう了見だ」
「ああ、あのことでござるか」
 合点がいった幸村の顔が明るくなった。
「あれは……もう良いのでござる。忘れてくだされ。貴殿に気兼ねされるは本意ではござらぬ」
 そう言って笑顔を見せる幸村に、政宗はますます不愉快な気分になった。 所詮その程度の想いでしかないのなら、はじめから口にすべきではない。あの告白にどれ程悩まされたことか。 しかし政宗は思い直した。幸村が政宗への想いを捨て去ったのなら、これまでどおり好敵手でいられる。 むしろ好都合だと自分に言い聞かせた。
「OK, それなら相手になってやるぜ」
 そう言って立ち上がった途端、幸村の目に闘志が宿ったのが見て取れた。 その双眸に惹き込まれそうになり、政宗は慌てて視線を逸らした。

 屋敷を出て石張りの稽古場に場所を移し、距離を取って刀を構えた。同じく二槍を構えた幸村は、
「政宗殿、いざ!」
そう言うや否や槍を振り上げ打ち込んでくる。政宗はそれを正面から受け止めた。手応えが重い。 ぎりぎりと鎬を削りながら幸村を見れば、幸村は不敵に口角を上げた。俄然、掻き立てられる。
「いいねェ、そんな目のアンタとやりたかった……!」
 槍を一旦受け流し、上段から斬り掛かる。幸村がそれを弾き返す。ぶつかり合う刃と刃が火花を散らす。 そうして激しい剣戟を繰り広げた。その槍捌きは、過日の川中島とは打って変わり、一切の迷いがない。 求めていたものが、今ここにある。政宗の心は満たされていった。

 そして屋敷に幸村がいる日々が始まった。
 幸村は、政宗との手合わせ以外にも、小十郎の畑仕事を手伝ったり、騎馬隊と馬で競争してみたり、すっかり伊達兵の面々と昵懇になっていた。 普通なら他軍の者とはそう易々と打ち解けられるものではない。 しかし、元々見知った仲であったとはいえ、特に気負った様子もなく皆幸村には心を許しているようである。 それはやはり幸村の人柄によるものなのだろう。
 政宗もまた、毎夜二人で酒を酌み交わしているうちに、軍の機密に関わること以外は互いになんでも話せるようになっていた。 ただひとつ、幸村への想いを除いて。
 政宗が己の変化に気づいたのは、そうして幾日か経った頃だった。日毎に幸村と親しくなっていくにつれ、欲が出てきたのである。
 はじめは密かに想っているだけでよかった。 幸村と全力で戦えればそれで満足だった。手合わせにおいてそれが叶い、政宗に不満はなかった。
 ところが、伊達の日常に入り込んだ幸村は自ずと政宗の目を引き、心を引き寄せる。 幸村への秘めた想いは膨らむばかりで、ずっと離れていた時は心の中で想うだけで満足していたのが、 常に傍にいる今はそれ以上を求めてしまうようになっていた。
 頭の中で警鐘が鳴っていた。深みに嵌っていく自覚があった。 幸村のことを知れば知るほど惹かれていく。 意識しないよう努めても、その存在を認識するたびに、目が、耳が、心が、己の全てが幸村に向いてしまう。 このままではいけないと感じてはいても、己の名を呼ぶ幸村の声に、投げかけてくる笑顔に、真っ直ぐな眼差しに、否応なく胸は高鳴り、 どうすればこの嬉しい気持ちを止められるのかわからなかった。 近くにいればいる程、触れたいと、触れられたいと、決して叶わないことを願ってしまう。 幸村を前にすれば、抱えきれない想いが溢れ出し、好きだと口走りそうになる。 言えぬ言葉が癒えぬ傷となり、政宗の心を抉る。
 そうして政宗は、行き場のない想いを抱え、幾夜も眠れず幸村のことを考えて過ごした。
 幸村が今政宗をどう思っているのかはわからない。 政宗が欲しいと言いその想いを吐露した幸村は、それを忘れろと言い、何事もなかったかのように接してくる。 きっと決然と断ち切ったのだろう。もしくは一時の気の迷いだったのかもしれない。 それはそれで良いと思う。幸村には苦しい思いをしてほしくない。自分が幸村への想いを捨てればよいだけの話である。 ただ、幸村を想うことが既に己の一部になってしまっている現状では、それが到底できそうにないのが問題だった。
 それから政宗は、政務に託け忙しいふりをして自室に籠るようになった。
そうして滅多に顔を合わさないまま幸村が奥州を後にすれば、幸村に対する想いも薄れるのではないかという心算だった。

 ところが、幸村が上田に帰る日が明日に迫った夜、幸村が政宗の部屋を訪ねてきた。
「政宗殿、おられるか」
 突然襖の向こうから呼び掛けられ、政宗の心臓は跳ね上がった。
「真田幸村か、どうした。入っていいぜ」
 呼吸を整え、努めて平静を装い応えると、そっと襖が開き幸村が入ってきた。手にした盆の上には徳利と盃が乗っている。
「此方で厄介になるのも今宵が最後の夜なれば、貴殿と過ごすより他ないと、厨房より頂戴して参った次第」
 そう言って照れたような笑顔を見せる。それを受け政宗の動悸は再び乱れた。 政宗の内心の苦労も知らず、何食わぬ顔で政宗のすぐそばに腰を下ろす幸村は、断られることなど微塵も想定していない様子である。 仕方なく、勧められるままに盃を取った。
 幸村は物珍しげに部屋を見回している。その様子に、初めて自室に招き入れたことに気づいた。 気恥ずかしさをごまかすように、政宗は杯に満たされた酒を一気に呷った。空になった盃に手酌で酒を注ぎ、再び呷る。
「政宗殿。此度の同盟が為された暁には、一度上田にも来てくだされ。あとひと月もすれば桜が見頃ゆえ」
「桜か……」
 ふと、満開の桜の木の下を二人で手を繋いで歩く姿が頭をよぎった。 花吹雪の中、桜に見惚れる政宗に幸村は柔らかく微笑みかけ――――そこまで想像したところで、政宗は慌ててかぶりを振った。我ながら重症である。
「暇があれば見に行きてェが、どうだろうな」
 そんな暇がないのはわかっている。あったとて行ける筈もない。何しろ今の自分は幸村への想いを断ち切るために足掻いているのである。 しかし幸村の落胆した顔を見たくなかったが為に、答えを濁した。
 そうして取り留めのない話をしながら、数日ぶりに近くで見る幸村のいつもの屈託ない笑顔に、どうしようもなく惹かれているのを感じていた。 傍にいればやはり、想いは強くなる一方である。このままではまずい。 早く出て行ってくれ、と思いながらも、このままずっと幸村の傍にいたいと願ってしまう。 己の執着心の強さに辟易し、ついつい頻回に酒を呷る。そうして何十杯めかの酒を嚥下した、その時だった。
 突如、視界が歪んだ。体に力が入らない。盃が手から転がり落ち、弧を描いて転がった。頭が重い。俯いて目を瞑り、眉間に手を当てる。
「政宗殿、如何された」
 己の名を呼ぶ幸村の声がやけに遠くに感じる。肩を掴まれ目を開ければ、輪郭の滲んだ幸村の顔がある。焦点が合わぬまま、政宗の視界は暗転した。

 真田幸村がいる。鉢巻を翻して振り返り、凛々しい笑顔を見せる。
 好きだ。どうしようもなく。こんなに誰かを好きになるなんて思ってもみなかった。
触れたい。衝動に駆られ手を伸ばす。しかし届かない。その名を呼ぼうとしたが声が出ない。 幸村は背を向け歩き去っていく。追いかけようとしても足が動かない。 そうしているうちにどんどん離れていく。行くな。ずっと傍にいてくれ。俺は、アンタが――――。
 焦燥感に駆られた政宗はがばりと起き上った。すぐ傍に幸村の顔があった。
「目を覚まされたか、政宗殿」
 心配げに顔を覗き込んでくる幸村を見返しながら、今の状況を把握しようと頭を巡らせると、こめかみに鈍い痛みが走った。 酒を呷った後の記憶がない。いつの間にか敷かれた布団の上にいる。
「頭を押さえたかと思うと急に意識を失われ驚き申した。見ればよく眠っておられた故、様子を見ておったのでござる」
 そういえば、このところ幸村のことばかり考えて碌に眠れていない。 寝不足のところへいきなり多量の酒を流し込んだために突然寝入ってしまったのだろう。
 みっともないところを見られてしまった。よりによって幸村の前で醜態を晒した自分に腹が立ったが、後の祭りである。
「アンタ、ずっとついててくれたのか。悪かったな」
「お気に召さるな。貴殿の寝顔など滅多に見られるものではござらぬ故、ある意味良うござった」
 政宗は軽く舌打ちして目を逸らした。最も無防備な顔を見られるなど、恥ずかしすぎて頭が破裂しそうだった。
「貴殿を寝かせた後、片倉殿を呼びに参ろうかと思ったのでござるが、その……動くこと叶わず……」
 言葉を濁す幸村に視線を戻せば、はにかんだような表情で何かを見ている。その目線の先を辿れば、そこには幸村の袖を掴んだ己の手があった。弾かれたように手を離す。何をやってるんだ俺は――――きっと変に思われたに違いない。 恐る恐る幸村を見た。幸村は何か言いたそうに此方を見ている。
「真田幸村」
 無意識にその名が口をついて出た。もう駄目だ、と思った。幸村を好きだと思う気持ちが堰を切った奔流のように止め処なく溢れてくる。 真田幸村。真田幸村。
「真田幸村。……アンタが、好きだ」
 幸村の目が見開かれた。幸村が自分をどう思っているのかはわからない。 たとえこの告白が幸村を困らせようと、そんなことは最早どうでもよかった。ただ楽になりたかった。大きくなりすぎて手に負えなくなった想いを吐き出さないことには、苦しくて心が壊れてしまいそうだった。
「政宗殿……それは貴殿の衷心からの言葉と受け取って良いのでござろうか」
「当然だ。寝ても覚めても、腹が立つくらいにアンタのことが頭から離れやがらねェ」
 幸村はまだ驚いた表情のまま政宗を見ている。そのだらしなく開いた口許でさえ、愛しく思える。もはや末期症状である。
「だが俺は別にアンタとどうこうなりてェ訳じゃねェ。聞き流してくれりゃそれでいい」
 政宗の心は晴れていた。幸村は困っているだろうが、知ったことではない。 これで吹っ切れる――――厄介払いができたような気分だった。
「某はどうこうなりとうござる」
「……What?」
 予想外の返答に、政宗は左眼を大きく見開いた。
「某の想いは武田道場にて申したとおりなれば」
「でもアンタ、忘れろっつっただろうが」
「漢祭りの後に、道場の前のあの頂で某が申したことを覚えておいでか」
 政宗は過去に思いを馳せた。 漢祭りでの試練を終え幸村より一足先に道場を後にしたが、信玄と戦う幸村が気に懸かった。 先に帰るのがなんとなく嫌というか、一緒に帰りたかったのもあり、道場の前で幸村が出てくるのを待っていた。 そして出てきた幸村と交わした会話といえば――――。
「まさか……」
「思い出されたか」
 あの時確かに、幸村はこう言った。
『貴殿に言わせてみせるでござる』
 あの時と同じように、幸村は凛々しい笑みを見せる。
「だがあれは、そういう意味じゃ……」
「政宗殿。先達て貴殿が甲斐へ来られ、某が胸中を明かした際に貴殿が申された言葉は、戦いに身が入らなんだ某を奮起させる為のものにござろう」
「……はァ?」
「貴殿の心は確と受け取り申した。某を虜にしてやまぬ御仁なれど、まずは真に得難き好敵手たるに相応しくあらねばならぬ」
「いや、あのな、真田幸村」
 政宗はまじまじと幸村を見つめた。曇りのない双眸で見つめ返す幸村は、本心からそう言っているようだった。 あの時、身を切られる思いで冷たい言葉を投げつけた政宗の覚悟は何だったのか。 脱力感を覚えた政宗は説明するのをやめた。布団の上で胡坐をかいて膝の上に頬杖をつき、長く息を吐いた。
「で、アンタは俺に好きだと言わせる為に遥々奥州まで来たって訳かい」
「然様にござる。川中島や武田道場での不甲斐なき姿などではなく迷いを捨てた今の某を御覧に入れる為、此度お館様の名代を願い出た次第。さすればあの頂での誓いも果たせようかと」
「What the hell……アンタ、どうかしてるぜ」
「褒められる程のことではござらぬ」
 一寸たりとも褒めたつもりはなかったが、どこまでも前向きな幸村にはそう伝わってしまうようである。
「ときに、政宗殿」
 幸村は政宗の呆れ顔も意に介さず、つと真顔になり、膝を乗り出した。
「よろしゅう、お頼み申す!」
 仰々しく手をついて勢いよく頭を下げる幸村に面食らった政宗は、頬杖をついた手から顎が外れ落ちた。さっぱり意味がわからない。 なんとなく居住まいを正し、その意図を問う。
「何を頼むってんだ、真田幸村。Make me understand, 俺がわかるように説明しやがれ」
「野暮を申されるな政宗殿」
 幸村は頬を上気させ、恥じらうような素振りを見せる。それを受け政宗は漸く理解した。
「おい、俺は別にそんな」
「照れずともようござる、政宗殿。某は色事には疎うござるが、晴れて貴殿と恋仲となれたからには如何な努力も惜しまず邁進する所存」
 恋仲。幸村の言ったその言葉は甘い響きを持ってぐるぐると頭の中で渦を巻いた。
 想定外の展開である。しかし、愛おしそうに見つめてくる幸村の双眸を前に、政宗は突っぱねることが出来なかった。 一旦は断ろうとした政宗だったが、それを望む気持ちの方が遥かに強かった。
 政宗と幸村の間には立場という障壁がある。 近々同盟が為されるとはいえ、この戦国の世では利害が一致しなくなればすぐに覆されるのが常である。 しかし、たとえそれまでの関係にすぎないとしても、今はそれで構わないと思った。
 出会って以来、惹かれる心を止められずずっと幸村を想ってきた。その幸村と今、恋仲になった。 ということは、これからは二人で会ったり、共に出掛けたり、手を繋いだり、いやそれ以上のことも出来るのである。 想像しただけで己の体温が上がった気がした。嬉しすぎて頭の中が沸騰しそうだった。
 どうすればこの嬉しい気持ちを止められるのだろう、と考え、これからは止める必要がないのだと気づいた。 これまでの、切なさの入り混じった嬉しさとは違う。 渇いた心が潤い満たされていくような、己に欠けていたものが補われていくような、そんな感覚だった。
「政宗殿」
 幸村の真剣な顔が近づいてくる。幸村の手が肩にかかる。軽く押されるまま、体を横たえられる。
 今宵が共に過ごせる最後の夜で、恋仲となった相手と部屋に二人きりで、しかも今、布団の上にいて。 整いすぎた状況を理解すると同時に、あまりにも急な展開に内心慌てふためいた。 だが制止する気にはなれなかった。戸惑いや不安より、期待と欲求の方が遥かに強い。覚悟を決め、生唾を飲み込んだ。
「真田、幸村……」
 窺うような眼差しが目の前にある。政宗は視軸を僅かに下げ、幸村の唇を見た。 これまで幾度も頭の中で夢想してきたことが今現実となる興奮に、政宗の胸は極限まで高鳴り、うるさいくらいに脈打った。 いよいよだ。政宗は覚悟を決め、そっと目を瞑った。
 ところが――――。
 期待に胸を膨らませる政宗をよそに、幸村の手はそっと政宗から離れた。 訝った政宗が薄く目を開けると、幸村は夜着を政宗の首まで被せ、胸の上をぽんぽんと軽く二度叩いた。
「ゆっくり休んでくだされ、政宗殿」
 立ち上がろうとする幸村に、今度は大きく目を見開いた。政宗の頭の中は疑問符でいっぱいになった。
「アンタ、このまま何もしねェで行っちまうつもりかよ」
 非難を含んだ政宗の口調に、幸村は何かに気づいたように動きを止めた。
「然様でござった。某としたことが、大事なことを失念しており申した。面目のうござる」
 そう言って幸村は床に転がっていた徳利と盃を片付け始める。 だめだこりゃ――自分だけ一人で空回りしている徒労感に、政宗は大きく溜め息をつき、ぐったりと布団に体を預けた。
「政宗殿、体調管理は武士の基本なれば、今宵はよく休まれて明日万全の状態で手合わせをお頼み申す。明日が最後ゆえ、互いに悔いなき様」
 一片の曇りもない笑顔を見せる幸村に、政宗はもう何も言う気になれなかった。酒盆を手に幸村は部屋を辞した。 閉じられた襖を暫く睨んだ後、政宗は右手で額を押さえ、再び大きな溜め息を吐いた。 期待が大きかった分、落胆も大きい。 盛り上がっていたのは自分だけだったという気恥ずかしさも相まって、夜着を顔の上までずり上げる。
 やがて、失望は苛立ちへと変わっていった。
「Fxxkin' asshole, 上から目線で偉そうに言いやがって。真田幸村のくせに」
 独り呟くと、顔の前の夜着をがばりと跳ね除けた。今度は鼻から大きく息を吐いた。
「据え膳食わねェ方が、よっぽど武士の恥だろうが」
 こんな上等な据え膳が他にあるか、いや古今東西ありえない、と自問自答し、手を出さなかった幸村は日の本一の大馬鹿者だという結論に達した。
 しかし、よくよく考えてみれば、幸村とはつい先ほど恋仲になったばかりである。 色事には疎いと本人も言っていたではないか。これから二人で徐々に進んでいけば良い。 そう思うと少し肩の力が抜けた気がした。 そしてまた、恋仲という言葉の持つ響きにうっとりし、先刻までの苛立ちが嘘のように我知らず顔が緩んだ。

 それから何ヶ月経とうが幸村と何の進展もないなどと、この時の政宗には知る由もなかった。







2017.03.08

【後書】
久々にアニメ武田道場見て、仮面つけた相手の正体に全く気づかない幸村が筆頭だけは認識できたらちょう萌えるーとか考えて書きました。
んであの言わせてみせるでござるを実現させたかった。意味違うけど(笑)
つか幸村……υ筆頭、心中お察ししますυ
幸村が酒に一服盛ったみたいにも読めますがそうではありません(笑)
ちょっと筆頭にしては控えめすぎるかなーとも思いますが、 武田道場のラストで幸村が出てくるの待ってた筆頭が、彼氏の部活が終わるの待ってたみたいでかわいかったので、かわいらしい筆頭を書きたかったのです。
結局全くイチャコラしないまま終わっちゃいましたねーυ
アレですよ、こっからサナダテ鉄板の『手を出さない幸村にやきもきした筆頭が襲い受け』につながるんですよきっと(・∀・)




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