「どしゃ降りだなあ」
朝はびっくりするほどの快晴だったというのに、午後から少しずつ増えた黒い雲は下校時刻には大粒の雨を降らせていた。幸いなことに私は、かばんの底に入っている母に持たされた折り畳み傘のおかげで濡れずに済みそうだった。ぱん、と小気味いい音を立てて傘が開く、と、隣から「あ、」と声が上がる。
「苗字さん準備いいなあ。さっすが女の子!」
「あ、ありがとうございます」
まさか降るとはね〜、と雨の降り注ぐ空を見上げて呟く菊丸先輩は多分、傘を持っていないんだろう。なんだか今にも走って帰ってしまいそうな先輩に、思わず、声をかける。
「その、よかったら、傘…」
入ります?と口にして、これじゃあ相合傘になるじゃないか、と気付く。絶対図々しかった。いっそ傘を先輩に貸して私が走って行ってしまおうか。だって先輩は大事な試合があるんだから、風邪なんか、先輩がひくくらいなら私がひいたほうがいいじゃないか。もう一度口を開こうとしたら、傘を持つ手に、菊丸先輩の手が重なった。どきりと、心臓がはねる。先輩はそのまま私の手からそっと傘をとると、笑顔を見せた。
「へへっお邪魔さしてもらうよん〜」
傘をとったのはきっと、先輩なりの気遣いなんだろう。確かに私より背の高い先輩が持った方がふたりとも濡れないし、そっちのほうがありがたいけど、でも、少しだけ触れた先輩の手の感触が消えなくて、そこからじわりじわりと全身に熱が広がっていくような気がした。恋の病とはよく言ったもので、これじゃあ本当に病気にかかってしまったみたいだなあなんて。
「そいえばさ、苗字さんメールのときと実際しゃべる時とちょーっとテンション違うよね」
「そ、そりゃあ実際しゃべるってなると緊張しますし…」
「え〜緊張?俺そんな怖い〜?」
「怖いとかじゃないんですけど、私もともと人見知りで、」
「そうなの!?にゃ〜じゃああのお友達になってくださいは大分勇気出してくれた感じ?」
「わっ、あれもう忘れてください!恥ずかしい…!」
私はどきんどきんと騒ぐ心臓をどうにかしようと必死になっていた。かばんをぎゅうと握って、何気ない風を装ってはみるけれど、いつかこの心音が先輩の耳に届いてしまうんじゃないかとひやひやしていた。先輩のほうをまっすぐ見られなくて、つっかえながら言葉を絞り出す。そんな私の言葉を先輩はしっかりときいて会話をはずませてくれて、それがなんだか嬉しくて心臓はどんどん煩くなっていく。
先輩の手にある紺色の傘は、ふたりで入るにはやっぱり少し小さかった。先輩が気を使って私の方に傘を傾けてくれているのがわかって、それでも濡れてしまう肩が、先輩との距離を縮める口実になった。濡れた肩の冷たさなんて気にならない。たまに先輩と触れ合う左肩がどうしようもなく熱くて、この瞬間がもっと長く続けばいいのに、と思った。
その日は結局、先輩に家まで送ってもらってしまって、すぐそこだからと断る先輩に大きめの私の傘を押しつけた。女の子用の傘をさす先輩はちょっと照れくさそうで、はたから見てもなんだかかわいらしいことになってたけど、こういうときは気にしたら、負け。去り際に菊丸先輩が言った「ありがとにゃー!今度なんかおごらして!」という言葉にほんのちょっと期待して、先輩との次のメールを楽しみに眠りについた。
05.心臓はひとつじゃ足りません
120129