来てしまった。俺、なんでここにいるんだろう。あのふたりの口車にのせられて、ほんっとばか。帰り際に桃に押しつけられた彼女に渡さなきゃいけないらしいプリントの入ったファイルをちらりと見て、ちょっとだけ、ため息をついた。でも苗字さんのことが心配なのは本当だし、まあ、いっか。そう開き直ったところで扉の横についているボタンを押す。家の中から少し響いてくるチャイムの音に、なぜかどきっとした。
けれどチャイムからしばらくたっても誰も出てくる気配はなくて、多分ぐっすり寝てるんだ、と結論を出してポストにプリントをいれこもうとする、と、
「うちに何か用?」
背後からかけられた声に振り向くと、同い年、いや、少し年上くらいの男の人。うちに、ってことは、苗字さんのお兄さんだろうか。「もしもーし、」ともう一度声をかけられてはっと我に返る。
「あ、俺、苗字さ…名前さんと同じ学校の…」
「もしかして名前の彼氏か!?」
「えっ」
違います、という前に、お兄さん(多分)は俺の背中をばしばしと叩いて見舞いにきてくれたんだなーとか、あがってけよ!だとか、マシンガンのように話しながらずるずると俺を家の中に引っ張っていく。ちょっと!
「いやさーこないだ名前がなんっかうきうきして出かけてたから彼氏でも出来たのかと思ったら、」
本当にいたんだなーなんて、言うもんだから、もしかしたらそれ、俺と遊びに行った時のこと?なんて図々しく考えちゃって、気付いた時には誰かの部屋の前。これって、もしかしなくても苗字さんの部屋なんじゃ、
「んじゃ、俺またでかけてくるから!ごゆっくり!」
ドアが開いたこと思うと、とん、と背中をおされて部屋の中に入らされた。確実に勘違いしまくってるセリフを残して、お兄さんは今来た道を戻っていく。これ、すっごいやばい状況だと思うんだけど。ドアの前で固まっていると後ろから小さな声がきこえてきて、心臓が跳ねた。
「ん…みず…」
ゆっくりゆっくり振り返ると、そこにいるのは思った通り苗字さんで、彼女は思いっきり腕をのばして机の上の水の入ったコップをとろうとしていた。ああ危なっかしい!まだ寝ぼけていいるであろう苗字さんのもとに、コップを持って行ってあげる。こくり、と水を飲んで、また横になった彼女は、まだ覚醒していない。今ならまだ大丈夫、と言い聞かせて、帰ろうとした矢先、彼女と目があった。うわ、すごい見られてる!
「……きくまるせんぱい…?」
ふにゃふにゃとけそうな声で名前をよばれて、耳が熱くなった。俺だって男だもん。女の子の無防備な姿なんて見たら、照れちゃうに決まってんじゃん。
(ってそんなこと言ってる場合じゃなくて!)
「なんでここにいるんですか…?」
「ご、ごめん、別に勝手に入ったとかじゃなくて!」
「………ゆめ?」
「え?」
どうやら苗字さんの耳に俺の声は届いてないみたいで、ぶつぶつと呟いている言葉を聞きとる限り、夢だとおもっているみたいだ。とりあえず、不審者だとか思われてないみたい?ほっと安心して苗字さんの方に顔をむけると、苗字さんはふにゃり、と優しい顔で、笑った。
「きょう、せんぱいに会えないとおもってたから、ゆめでも、かお見れて、しあわせ、だな」
「!」
苗字さんは、そのまままた目を閉じて、すやすやと寝息をたてる。さっきの比にならないぐらいに、顔が火照っていくのがわかった。持ってきたプリントを机の上に置いて、極力音をたてないように、でも全速力で、苗字さんの家を後にした。
なんとなく、だけれど、彼女の向けてくれる好意には気づいていた。好かれて悪い気はしないし、それじゃあいい先輩でいなきゃなって思った。今日のお見舞いは、桃に唆されたとはいえ、本当に行きたくなかったら行かないって選択肢もあったわけで。ちょっと顔出して、傘のお礼と、それから大丈夫?ってきいて、それで、また明日って笑うつもりで、それなのに、
「あれはちょっと反則だよにゃあ…」
頭を過ぎる俺を呼ぶ声に、また熱くなった気がした。
09.自惚れてもいいですか
120526