朧月
世は戦国乱世。血で血を洗う争いは激しさを増し、大名達は己の領土を拡げることに躍起になっている。
女子供は外交を円滑に運ぶための道具として用いられた。
白梅城城主の娘として生まれた私も例外ではない。幼い頃から礼儀作法や芸能の教育を受け、煌びやかな着物に身を包み、蝶よ花よと育てられてきた。時が来れば、どこかの有力な城へ嫁がされるのだろう。それが、この何不自由ない生活への代償であることは理解していたし、それが自分の責務であると、覚悟もしていた。
それ故、市井の娘達が現を抜かす"恋"などというものを自分は体験せずに一生を終えるのだろうと思っていた。…そう、あの日までは。
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それは、晩秋に近づいた頃。虫の音が響く、月の綺麗な夜であった。
先の戦で勝利した祝いの宴が催され、お披露目という形で呼ばれた私は、お酌をして回っていた。
「紫苑殿はほんにお美しい。もっと近くで話せませんかな?」
下卑た笑を浮かべた赤ら顔のこの男は、城内でも酒癖の悪さで有名な大名である。予想はしていたが、ここまで酷いものとは。徳利を持つ手を握られ、脂ぎった手で撫で回される嫌悪感に震えながらも父の手前、平静を装う。
「佐久間様…困ります。折角のお酒を零してしまいますわ。」
父が気づくのでは、との期待を込めてやっとの思いで紡いだ言葉も、家臣と飲み比べをしている父には届かなかった。
「困られたお顔もそそられまするな。ほれ、もっとよく見せてくだされ。」
それどころか、事態は悪化する一方であった。男の手が顔に差し掛かり、触れようとするのが見えた私は、咄嗟に目を瞑り次に起こる事に備えた。しかし、男の手が私に触れることはなく、代わりに悲痛な叫びが聞こえてきた。
「ぐっ、いたたた。何奴じゃ!某は時任様の一の家臣であるぞ。無礼であろう!」
驚いて目を開けると、男は何者かに腕を捻じあげられていた。
「無礼なのはどちらです?己が仕える主人の姫に不必要に触れるなど。立場を弁えなさい。事を荒立てたいのなら受けてたちますが、どうします?」
ちりちりと肌を焼くほどの殺気と共に、取り押さえている男の声が凛と響く。
「ひっ…某が悪かった。離せ!」
あまりの殺気に顔を青ざめさせ、拘束を振りほどいた男は文句を言いながら退室した。
突然の事に、理解が追いつかず呆然としていると、男が口を開いた。
「気付くのが遅くて申し訳ない。大事はありませんか?」
「お助けいただき、かたじけのうございます
。お陰様で…」
礼を述べ、下げていた頭を上げて相手を見ると、あまりの美しさに言葉も忘れた。磨き抜かれた南蛮渡来の眼鏡なるものの奥に光る切れ長の目。一分の乱れもなく整えられた髪。派手過ぎず、それでいて地味でもない品のある着物に身を包んだ彼の人は、仕草の一つをとっても隙がない。
さっきまで嫌悪感に青ざめていたであろう自身の顔が赤くなるのを感じる。
「やはり、気分が悪いのでは?今日はお休みになられた方が良い。部屋まで送りましょう。」
口を開いたまま動かなくなった私を不審に思ったのか、覗きこんでくる。
「いえ、助けていただいてそこまでして頂くわけには。すぐに乳母が参りますゆえ。」
「夜分に姫様の部屋へ赴くなど、私も非礼でしたね。お疲れでしょう。ごゆるりとお休みください。」
なんとかそれだけを返すと、相手も納得したのか、優しげに笑った。
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湯浴みを済ませている間に事の顛末を知ったらしい乳母が部屋へ帰る途中の廊下で口を開いた。
「ああ、お労しい。あやつめ、前々から姫様を下卑た目でみつめおって。御館様に言って注意して頂かなければ。」
「これこれ、このような場所でするような話では…っぷ」
激昂する乳母を窘め、正面を振り向くと、何か硬いものにぶつかった。
「おっと、これは失礼。」
よろける体を支えられつつ、この腰に響く耳に心地よい声は…。なんて事を考えていると、月を覆っていた雲が晴れ、月明かりの元に、男の顔が晒される。
「先程の…?!こちらこそ不注意で。ご無礼をお許しください。」
「お怪我はありませんか?」
「ええ。お陰様で。先程から何度も申し訳ございません。」
「いえ、暗いとはいえ私も不注意でしたので、お気になさらず。」
決め手は月光を浴びながら艶やかに笑うその様だったのだろう。その顔を見た瞬間、私は恋に落ちた。その後、いくつか言葉を交わし部屋に帰ったが、何を話したか、どのように帰ったのかは覚えていない。
その日から、熱に浮かされたように、彼の人のことを考えるようになった。しかし、名前もどこの国の方なのかも聞いていない事に気付き、ただあの日の記憶を辿るのみである。
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「姫様、御館様がお呼びにございます。」
「分かりました。今行きます。」
それは、あの運命的な出会いを果たしてから数日後のことであった。
父に呼び出された私は、広間へと通された。ここに通される時は、決まって何か大事な話がある時だ。背中に一筋、嫌な汗が伝う。
「お父様、紫苑にございます。」
「おお、入って参れ。」
私が正面に座したのを確認し、ゆっくりと口を開く。
「実は、そなたに縁談の話が持ち上がってのう。先方はお前を是非にと申しておるのだ。」
やはり。心臓がキュッと縮まる。幼い頃から覚悟は決めていたはずなのに。ここ数日の宙に浮いたような、ふわふわした気持ちが地面に叩きつけられる。震える声で、先を促した。
「先方とは、どなた様でしょう?」
「比嘉城城主の木手殿じゃ。どうじゃ、悪い話ではなかろう?」
その言葉を聞いた途端目の前が真っ暗になった。最近、勢力を伸ばしつつある比嘉城は、戦に勝つためならば手段を選ばないと有名だ。その城主の木手様はとくに容赦がなく、裏では殺し屋とまで呼ばれている。実際に赴いたことはないが、恐ろしい所に違いない。父は私に死にに行けとでもいうのだろうか。
しかし、私に拒否権などない。比嘉の力はこの国にとっても喉から手が出る程ほしいものである。それが、この縁談で手に入る。これが、私の役目なのだ。
「謹んで、お受けいたします。」
無けなしの矜恃を振り絞って、微笑みながらそう答えた。あわよくば、彼の人と夫婦になりたかった。夫婦になれずとも、文を交わし、親睦を深め、もっと触れ合いたかった。今となっては叶わないけれど。この数日間恋心を味わうことが出来て、普通の娘になれた気がした。
「おお、それは良かった。いや、実はな、できるだけ早い方がよいと木手殿がいらしているのだ。そこの者、木手殿を呼んで参れ!」
腹は括ったが、あまりの速さに理解が追いつかない。
「木手様がいらっしゃいました。」
その声に、急いで頭を垂れる。
「おお、木手殿。お待たせして申し訳ない。」
木手様は父と何かを話しているようだが、全く頭に入ってこない。
「これが不肖の娘にごさいます。」
という父の声に我に返り、口を開く。
「お初に御目文字仕ります。白梅城城主、義昭が娘、紫苑にござります。不束ものではございますが、よろしくお願い申し上げます。」
「比嘉城が城主、木手永四郎と申します。お初に…ではありませんね。…お元気でしたか?」
この声は…。無作法とは知りながらも、勢いよく顔を上げる。
「あなた様は…。」
「あの宴以来ですね。」
忘れるはずもない。毎日毎日思い返していた、あの人の姿がそこにあった。
「これからよろしくお願いします、紫苑様。いえ、紫苑。」
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