手水の縁
「では、春休み中に組踊を見て、半券と一緒に感想を提出すること。」
そんな課題を出されてから、早1週間が過ぎた。元々組踊に興味のあった私は、お気に入りの演目である手水の縁の公演日を調べ、嬉嬉として国立劇場へ赴いた。
手水の縁とは、敵討や親子愛が描かれることの多い組踊の中で、男女の恋を扱った珍しい演目で、
"水浴びをする玉津に一目惚れした山戸は、玉津に手ですくった水を飲ませ、恋人の契を交わしてくれ。そうしてくれなければ身投げをすると脅す。最初は断っていた玉津も観念し、山戸に水を飲ませ、また会う約束をする。
約束通り夜に逢瀬を重ねていた2人だが、これが門番にみつかり、玉津の親の知るところとなる。密通の罪で処刑されることになった玉津。処刑場に現れた山戸は処刑人達を説得し、逃がしてもらう。"
という物語である。
「紫苑クン?」
受付でチケットを渡し、パンフレットを貰っていると、後ろから聞き覚えのある声に呼び止められる。
「木手君?」
そう。振り向いた先に居たのは、クラスメートで同じ委員会の木手永四郎君。3年間委員会が同じで、何かと同じになる機会が多い。
しなやかで落ち着いた雰囲気の中にも強い意志を持つ彼を好きになるのに時間はかからなかった。
「見覚えがあると思えば、やはり君でしたか。課題をしに?」
この人混みの中から見つけ出せる程には気にかけてくれているのかと思うと、口元が緩みそうになる。
「うん。どうせなら好きな演目を、と思って。木手君も?」
「ええ。この舞台の監修が好きな役者でしてね。もしあなたが良ければ、隣に座っても?」
「もちろん。」
「では、遠慮なく。」
にこりと妖艶に微笑む様に、心臓が高鳴る。惚れた弱みか、今のようにふとした仕草にドキッとすることはあるものの、彼との空間はとても居心地が良い。
知らない人が隣に居るよりも、気心のしれている木手君と一緒の方が観劇にも集中できる。
舞台へ移動すると、少し早めに来たためか、真ん中のなかなか良い席が空いていた。そこに座り、お互いパンフレットに目を通しつつ、たまに言葉を交わす。
「あ、この舞台の解説金城先生なんだ。」
「通りで。読みやすい筈です。」
「ね。この方の文章、表現も素敵で好きなの。」
「この前書かれていた、銘苅子の解説も良かったですね。」
「うん。」
そんな話をしていると、拍子木が鳴り出し、緞帳が上がる。
目線の機微で玉津の心情を表す役者さんは流石としか言い様がない。舞台監修の指導の賜物だろう。木手君がわざわざこの公演を選んで見るだけのことはある。
最後の処刑場の場面では危うく泣くところだった。
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「すっごく良かったね。ついつい引き込まれちゃった。」
「ええ。玉津を演じていた役者さんは舞台監修の方の1番弟子ですからね。将来有名な役者になるでしょう。」
「そうなんだ。知らなかった…。また別の舞台見るのも楽しみだね。」
などと舞台の感想を話していると
「やはり観劇後は喉が渇きますね。」
と、思い出したかのように木手君が呟く。言われてみると、私も喉が渇いていることに気付き、無性に飲み物が欲しくなる。
「ほんとだね。どこか寄っていく?」
「そうですね…。ラウンジのカフェなんてどうです?」
「うん。そこに行こう。」
木手君はホットコーヒーを、私はアイスティーを頼む。
コーヒーを飲む姿ですら絵になるのだから、木手君には適わない。そんな事を思いながらぼんやり眺めていると、おもむろに木手君が口を開く。
「近くに湧き水でもあれば良かったのですが。」
「どうして?」
「貴方の手ずから飲ませて貰えるでしょう?」
「え?」
それは、つまり…。手水の縁を見た後に言うのだ。木手君も確信犯だろう。言葉の意味を理解した途端、顔に熱が集まるのを感じた。顔を真っ赤にした私に、満足気に微笑みながら畳み掛ける。
「んぞゆ うなさきに ぬまちたぼり。とぅてぃん
ぬみぶしゃや、んぞが てぃみじ。(あなたの情で飲ませてください。どうしても貴方の手水が飲みたい。)」
意味が分からなければどうとでもないのに。幾度となく聞いた台詞の一節に、嫌でも頭が理解して、益々顔が熱くなる。今回ばかりは自分の趣味に恨みを覚える。
「安心なさい。俺は山戸のように恋人を危険な目に遭わせるような男ではありませんよ。」
ここまで言われてしまえば、私に残された返事は一つだけだった。
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