「お疲れさま、カタクリ」
「レナか」


時計を見ればあともうもう少しでメリエンダになる時間だった。足を止めた瞬間にドッと疲労が押し寄せてくる。おれはその疲れに抗わずに足の力を抜き、床に座り込む。乱れた息と滝のように流れる汗が不快だった。


「レナ」
「はい」
「ありがとう」


レナから差し出されたタオルを掴んで汗を拭く。気を使わず、最低限の言葉だけで言いたいことが分かるレナとの会話は楽だ。
汗を拭き取っても上がった体温は下がらない。


「暑い……」
「訓練のときくらいマフラー外せばいいのに」
「ダメだ。少しでも隙をみせるとそこにいつか付け込まれることになる」
「そんなこと言ったって、この訓練場には誰も来るなってみんなに伝えたでしょ」
「おまえみたいにおれの言ったことを無視して来る奴がいるかもしれないだろ。そのためにもマフラーは外せねェよ」
「その言い方だと私が何の目的もなく来てるように聞こえる。私はこうやってカタクリにメリエンダを知らせてタオルを持ってきてるじゃない」
「別にそのことについては何も悪く言ってねェだろ」
「どうだか」


レナは肩をすくめて、それからおれに手を伸ばしてくる。その手には他意も何もない。あるのは見返りを一切求めていない無償の愛だけだ。おれはそんなレナの差し出す手のひらを掴むたびに、はじめて出会ったあの日を思い出す。
メリエンダの甘い匂いに包まれて朗らかに笑うレナはとても尊かった。
レナがグッと身体全体に力を入れておれの手を引く。立ち上がったおれは高くなった視線を下げてレナを見る。
もともと背の小さいレナとの身長の差は日を追うごとに広がっていく。レナとの瞳の距離が遠くなっていることが寂しく感じるようになったのはいつからだったろうか。


「カタクリ、今日のメリエンダはね」


ふと見つめたレナの頬に傷が一筋、白い頬に赤い線を残していた。


「レナ、頬に傷が!」
「え?……あ、!」


レナが慌てたように頬に手で傷を隠す。
刹那、見えない何かにヒビの入る音が聴こえた。


「あーえっと、こ、この傷は自分で引っ掻い、ちゃってさ」


「だからカタクリは心配しなくていいよ」とブリュレの件でおれが顔の傷に過敏になっていることに気付いているレナはおれを安心させようと笑う。けれど、その笑顔はいつものレナの笑顔ではなかった。

レナは嘘をついている。レナが引っ掻き傷だと言った傷は刃物で切り付けられたときにできる傷だった。おれが見間違うはずがない。
なぜレナはおれに嘘をついたのか、その理由が知りたかった。


「そんなことより、カタクリ。もうすぐでメリエンダが」
「……見え透いた嘘なんかつくんじゃねェよ。その傷はどうしたんだ。レナの顔に傷をつくった奴は誰だ。教えろレナ」


繋がった手に自然と力が入った。


「痛っ!」
「教えろ」
「い、嫌だ!」


レナは一歩、逃げるように後ろへ下がる。


「なんだと?」


おれは一歩、追い詰めるように前へ踏み込む。


「嫌だ!教えたくない!」


一歩後ろへ。


「教えろ!」


一歩前へ。

一歩後ろへ。

一歩前へ。

一歩後ろへ。

どん、とレナの背中が壁につく。おれはレナが逃げ出さないよう両手を壁にを押し付けて、おれと壁の間にレナを閉じ込めた。


「言え」


逃げられないことを悟ったレナは観念して話す気になったようでもごもごと口を動かす。


「……も」
「はっきり話せ」
「私も戦えるようになりたくて、昨日から、指導を受けてるの」


レナの言葉を一瞬うまく飲み込むことができなかった。
なぜ戦いたいんだ。おまえは戦いそのものが苦手なはずだ。そんなレナが武器を握って戦うだと?
でも、戦闘訓練を受けることはレナから何も聞いてない。


「なんでおれに言わなかった」


おれはレナの肩を掴み、先程より威圧感を全面に出して問い詰める。


「なぜおれに知らせてくれなかった」


ずっとおれを真っ直ぐ見ていた瞳がスッとそらされた。おれにはそれがレナからの拒絶のように感じた。
焦燥がおれの胸に渦巻く。
ヒビは広がる。


「答えろレナ!」
「だって……だって、カタクリに言ったら反対するでしょ」


そらされた瞳が合わさることがないまま、レナは床を見ながらそう答えた。その顔の位置からは頬にある傷痕がよく見えた。そんな傷は見たくない。


「当たり前だろ!この島にいる限りおまえの安全は保証される!おまえの戦う必要なんてどこにもない!」
「……ッいいえ、あるわ!使える駒はひとつでも多い方がいいに決まってる!そうでしょ?!」


何かを躊躇うような数秒の静寂のあと、レナの目がようやくおれに向けられた。でも、その瞳はおれの求めている瞳ではなかった。
何もかもが気に入らない。


「おまえが訓練をしたところでその強さはたかが知れている!おまえは安全な城でおれたち兄弟が戦って帰ってくるのを待っていればいいんだ!」
「何もしないで待つなんてできない!それに私の訓練を見てくれたペロス兄さんは私に剣の才があるって言ってくれたわ!」


なぜかその言葉が頭に来た。レナを一番知っているのはおれなのに、おれではなくペロス兄の言葉に従おうとするレナが憎くて仕方なかった。


「その言葉、本気で信じているのか!?」


おれの言葉にレナが息を飲む。
だが、黙り込むことはなかった。


「ペロス兄さんが嘘をいうわけないじゃない!」
「万が一、ペロス兄が本当のことを言っていたとして、第一おまえは優しすぎる!敵を殺す覚悟ができねェ奴に剣を握る資格はねェ!」
「っでも、もしものときカタクリを守りたくって」
「おまえに守られるほどおれは弱くねェ!!!!!」


パリン、と何かが割れた音が頭のなかに響いた。


「…………ごめ、なさい」


その言葉でおれは我に返った。
レナの肩を掴んでいた両手を思わず離す。
声を震わせるレナは目を合わせてくれなかった。レナの両手は胸の前でキツく握られていた。


「そう、だよね……カタクリがこんなに強いのに、守りたいとか、何言ってるんだろう私」


そうじゃない。そうじゃないんだ。


「私は、覚悟も決めてないのに、カタクリを守るんだって、思い上がってた」


違う。それはレナに汚れてほしくないおれのエゴだ。


「ごめん………ごめんなさいカタクリ」


すまないレナ。おれはただ大切なおまえが敵に怯えることなく毎日を暮らしてほしいだけなんだ。

後悔しているのに、身体が石像になったように動いてくれない。目を見ただけで通じ合うおれたちは、けれど、今だけは言葉で伝えなくてはいけない。なぜだかそう思った。


「……なぁ「おい、メリエンダ始まるぞ二人とも」ッ!?!」


ようやく絞り出せた言葉は突然扉を開け放ったオーブンによって打ち消された。部屋に入ってきたオーブンはおれたちの雰囲気に形のいい眉をひそめた。


「なんだこの空気にこの状況」
「出ていけオーブン。おれたちはいま」
「わざわざ呼びに来てくれてありがとうオーブン」


言葉はまたも遮られた。
レナがおれの身体を押す。離れろというレナからの意思表示だった。おれは一歩、後ろへ下がる。レナはできた隙間からすぐに抜け出してオーブンのもとに向かう。おれからレナの表情は何も見えなくなった。


「でも、ごめん。ママに私は気分が悪いから休むってこと伝えてくれる?」
「あぁ………大丈夫か?」
「ちょっとダメかも」


レナは笑いたかったのだろうが、まったく心が感じられない、乾いた笑い声を部屋に響かせた。そして、顔をおれに見せることがないまま扉へと歩いていく。


「レナ!」
「来ないでッ!」


レナへと駆け寄ろうとした足が止まる。
手は中途半端な位置で止まったまま。


「……ごめんカタクリ。しばらく一人にさせて」


そう言い残したレナは目元を押さえながら、廊下の向こうへ消えていった。レナの足音が聞こえなくなったことを確認してオーブンが口を開く。


「カタクリ、あの言い方はダメだろ」
「……いつから聞いていた」
「おまえの言葉足らずな叫びは大体聞いた」
「ほとんど聞いてんじゃねェか」
「悪ィって。で、今日のメリエンダはどうする。これ以上ママを待たせるわけにはいかねェ」
「こんな状態でメリエンダに参加しても楽しくねェだけだ」
「そりゃそうだろうな」
「ママにおれも休むと伝えてくれ」
「二人揃ってしょうがねェな……カタクリ、こういうケンカは早く仲直りしたほうがいいとおれは思うぞ」


おまえの分のドーナツはおれが食ってやるよ、と笑いながらオーブンも部屋から出ていった。扉が閉められておれは完全な一人になった。


「……今日のメリエンダはドーナツだったのか」


そう呟いても言葉が返ってくることはない。
割れて粉々に砕けた何かはおれの身体をズタズタに引き裂いた。


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