その日は唐突に訪れた。
お城のなかが騒がしいと思っていたら最近よく遊んであげているクラッカーが真っ青な顔をして私の部屋に飛び込んできた。何があったと聞けばブリュレが顔を切りつけられたらしいと言う。すぐに私は部屋を飛び出してブリュレのもとへと向かう。
「ペロス兄さん、ブリュレは!?」
手術室の前ではたくさんの兄弟が集まっていた。
「額から左の頬までを切りつけられていた。傷は残るが命に別状はないそうだ」
「そう、よかった……。でも、なんでブリュレが」
「カタクリの口をからかってやられた奴らが仕返しにやったんだ」
そう教えてくれたのはダイフクだった。となりにはオーブンもいる。けれど、肝心のカタクリの姿はどこにもなかった。
「カタクリはどこ」
「聞いてどうする」
「迎えにいく」
「や、やめたほうがいいってレナ姉ちゃん!カタクリ兄ちゃんすっげェ怒ってた!」
クラッカーが必死になって私を止めようとする。カタクリによくなついているクラッカーがこうも怖がっているんだから相当に怒っていたのだろう。それでも私は行かなきゃいけない。このまま一人にしていたらカタクリが心を閉ざしてしまいそうで怖かった。
「それでもいいの。大丈夫、怒っていたとしても弾みで兄弟まで切りつけるような男じゃないわ」
「レナ姉ちゃん……」
「ダイフク、カタクリはどこ」
「南の広場の裏路地だ」
「ありがと」
私は一心不乱になって走った。
あまりに鈍い自分の足に苛立ちが湧く。
手遅れになる前に早く、間に合って……!!
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、」
ダイフクの情報は間違っていなかった。南の広場の裏路地に近づくほど人は少なくなって、風に運ばれた血の匂いが広場を包んでいた。裏路地に近づくにつれてその匂いは濃くなる。
真っ赤に染まった石畳。ピクリとも動かない臥した人たち。そして全身に血を纏ってその中心に佇むカタクリ。空気がビリビリと肌を刺激する。まるで来るなと言われているようだった。
それでも私はあのときカタクリを一人にさせないと誓ったから。
カタクリから放たれる威圧感に、震えそうになる足に力を入れて踏ん張る。握りしめた手のひらに爪を立てて痛みで恐怖を紛らわさせる。
「カタクリ」
瞬間、カタクリが動いたかと思えば私の鼻先に三又槍が突きつけられる。さっきよりずっと強くなった威圧感が苦しい。だけど、ここで引いたらいけない。目を閉じて深呼吸をする。大丈夫。カタクリはカタクリだ。何も怖くない。
そっと瞼を持ち上げて、できるだけいつも通りの笑顔を浮かべる。
「カタクリ。帰ろう」
三又槍が下ろされた。
でも、カタクリはその場から動こうとしない。
「カタクリ」
届くと信じて名前を呼ぶ。
「一緒に帰ろう」
いつもみたいに手を繋いで。
そう思ってカタクリに手を伸ばす。
「レナ」
「うん」
「レナ」
「うん。帰ろっか、カタクリ」
「あぁ」
血だらけの大きな手で、カタクリは私の手を掴んでくれた。その手をギュッと握ってゆっくりと歩き始める。一歩一歩ゆっくりとお城までの道のりを歩いていく。カタクリの後ろに続く血の足跡はだんだんと薄れていた。
ようやくたどり着いたホールケーキ城の入り口にはペロス兄さんが立っていた。
「ただいまペロス兄さん」
「おかえり。レナ、カタクリ」
ペロス兄さんから名前を呼ばれたのにカタクリはなんの反応もしない。
「レナ、任せていいか?」
「もちろん。その代わりママへの報告お願いね」
「はじめからそのつもりだよ。カタクリをよろしく頼む」
「うん」
私の頭を撫でたあとペロス兄さんはママの部屋へと向かっていった。その後ろ姿を見送って私はカタクリの部屋に向かった。
「ポーン兵さん。兄弟が来てもカタクリの部屋に入らないよう人払いしてほしいの」
「了解であります」
「ありがとう。それじゃあよろしくね」
廊下で見つけたポーン兵に人払いを頼んで私はカタクリの部屋の鍵を締めた。窓のカーテンもすべて広げて、カタクリの部屋は人工的な光で照らされる。
振り向けば私が手を離した場所からカタクリは一歩も動いてない。そんなカタクリに近づいて、正面からギュッと抱き締める。
「今は誰も見ていない。私しかいない。気を張らなくてもいいんだよ」
そう言ってどのくらい時間が経った頃だろう。カタクリの腕がゆっくりとぎこちなく動き始めて私を優しく抱き締めた。
「…………おれが甘かった」
「おれが間違っていたんだ」
「おれの隙がブリュレを、大切な家族を傷つけた」
「もう二度と隙は見せねェ。完璧になって、完璧になったら、完璧にならねェと」
ポツリポツリとカタクリが心のうちを吐露してくれた。
カタクリは人一倍家族を大切に思っている。その思いもきっとその口が原因なんだろう。だからこそ、今回の出来事でマフラーで口を隠して完璧を求めようとする気持ちは理解できる。
「カタクリが決めたことなら私からは何も言えない。だけど、私と二人きりのときだけは完璧を求めないで。私と二人きりのときだけは思う存分甘えていいから、だから心を閉ざさないで、カタクリ……!」
大好物のドーナツを口いっぱいに頬張る幸せそうな顔、ダイフクとオーブンと一緒に馬鹿をやって大笑いする楽しそうな笑顔。そんな顔が見られなくなるなんて、私には耐えられなかった。
「
「レナ」
「なに? カタクリ」
ちょっとだけ涙声になっていた。
「…………もう少しだけ、このままで」
「うん」
こんな日でもメリエンダはやってきてホーミーズが廊下でメリエンダの知らせを歌う。この日はじめて私とカタクリはメリエンダに行かなかった。
私より少し高いカタクリを抱いて、気づけば記憶の中のお母さんがよく歌ってくれた故郷の子守唄を口ずさんでいた。
どうかカタクリの行く未来に少しでも明るい未来が訪れますように。
孤高になることを選んだ日