『飽きずによく眺めてられるな、レナ』
『好きだから』
『は?』
『どんなことが起きようとも、この海は変わらずにそこにある。だから好きなの』
『変化は嫌いか』
『ちょっとだけ』
『……おれは変わらねェよ』
『?』
『おれは誰になんと言われようとも信念を変えるつもりはねェ。ずっと変わらず貫き通す』
『うん』
『だから、レナ、おまえの安心できる居場所として立候補してもいいか』
『……』
『……おい、なんとか言え』
『ふふ』
『あ?何笑ってやがる、こっちは真面目に』
『全然スモーカーらしくない。ふふ、でも素敵。とっても素敵。いつの間にそんな言い回しを覚えたの?』
『……もう知らねェ』
『あ、待って待って、スモーカー。そんなに拗ねなくたっていいじゃない』
『おまえはそこで一生海でも眺めてろ』
『もう、スモーカーってば』


あの頃、毎日あなたに名前を呼ばれるのがどれほど幸福なことなのか、私は理解していなかった。
大切なものは失ってからはじめて気づく。
誰の言葉か忘れてしまったけど、その通りだと強く思った。


「……すも、かぁ…」


私が愛した白煙のあなた。
最期にもう一度だけ、あなたに名前を呼ばれたかった。
あぁ、絵はがきはちゃんと届いているだろうか。





カツカツカツカツ。
海軍本部の廊下でヒールを鳴らしながら歩く女将校がいた。
名をヒナという。
すれ違った若い海兵が思わず振り向いてしまいたくなるほどの美貌を持つヒナだが、その顔はどこか険しい。白くまろい眉間にはわずかな皺が刻まれていた。
彼女は任務から帰って来たばかりだった。船から降り、手早く報告と済ませると、同期の一人であるスモーカーの執務室まで脇目も振らずに真っ直ぐ向かう最中だ。
しばらくして将校以上の海兵の執務室が集まる棟に入った。昼時になったばかりからかすれ違う人数が増える。だが、彼女の歩みは変わらない。そのためヒナを視界に捉えた海兵は皆、道を譲るために廊下の端へと移動していく。
そのとき、一人の海兵がヒナめがけて駆けてきた。


「ヒナさん、待ってました、助けてください、スモーカーさんがっ」
「えぇ。そのつもりよ」


待たせて悪かったわね、と労うように頭を撫でるヒナに対し、海兵たしぎは目を潤ませた。


「彼の状態は?」


歩き続ける彼女に遅れまいとたしぎは手の甲でぐいっと潤む目を擦り、並行しながら報告する。


「仕事はしています。ですが、以前にも増して葉巻を吸う回数が増え、任務以外は執務室からほとんど出てきません。常に気が立っていて……話しかけることさえ恐ろしいと感じてしまいます」
「そう、それは大変だわ。ヒナ理解」


窓から侵入した海風が廊下を吹き抜け、ヒナの髪を誘う。
ふわり。
潮の香りに混ざり、葉巻の香りが風に乗ってやってきた。ヒナは脳内で棟内の地図を広げた。ここからスモーカーの執務室までまだ距離があるはずだ。ヒナの歩調がわずかに早まる。
階段を上り、角を曲がり、廊下の一番奥。
そこがスモーカーに割り当てられた執務室だった。


「あらやだ」


ヒナは思わずぼやいた。
廊下の一番奥。廊下は窓が全開であるにも関わらず、執務室のドアの隙間をすり抜けた紫煙がうっすらと廊下に充満していた。


「報告ありがとう。ヒナ感謝。これから私はスモーカーくんとさしで話すつもりだから、あなたは食堂で昼食でも食べながら待っててくれるかしら」


そういうとヒナはたしぎからの返事を待たず、執務室を目指した。



トントントン。


「私よ、スモーカーくん。失礼するわ」


今が昼休憩中ということもあって、ヒナは遠慮なくドアを開いた。
紫煙が満ちる執務室。その奥にスモーカーはいた。


「ひどい匂い」
「何の用だ」


スモーカーはやって来たヒナをギロリと睨む。


「……彼女の言うとおりね」


スモーカーは荒れていた。
今のスモーカーが発する拒絶のオーラは触れたものを殺してしまいそうなほど鋭くて冷たい。たしか今は上司の青キジが長期期間海軍本部を留守にしているはずだ。となると、こんな状態のスモーカーにいったいどれほどの将校が声をかけてくれただろうか。正直、海軍本部からスモーカーへの印象は悪い。なんたって仲間である海兵の間で野犬と呼ばれるほどだ。つまり、あの日から今日まで、スモーカーに休めと無理矢理にでもここから引き剥がしてくれる人物はいなかったことになる。
自暴自棄になって仕事を放棄しないところが彼らしいといえば彼らしい。
しかし、同期のヒナでさえ近付くことを躊躇うような拒絶のオーラに、部下が耐えられるわけがない。この状態のスモーカーと一緒に仕事をしなければならなかった彼の部下に心のなかで激励を送りながら、ヒナはスモーカーへと近づく。スモーカーとの距離が短くなるにつれて、ピリピリとした怒りがヒナの肌を刺激する。ヒナはそれでも構うことなく執務机の前に立った。


「記憶が戻ったのねスモーカーくん。けれど残念なお知らせよ」
「出ていけ」
「嫌よ。すでに聞いているとは思うけど、スモーカーくん、あなたは長い間忘愛症候群を患っていたわ。病状は愛する人に関する記憶を失うこと。発病例があまりなくて、対処法も確立されていない、とても珍しい奇病。この病気を治す方法はたった一つ。それは愛する者の死」
「言うな」
「つまり海の向こうでレナは」
「黙れっ!」
「レナは死んだのよ、スモーカーくん」





「レナは死んだのよ、スモーカーくん」


ヒナの直接的な言葉にスモーカーの頭はぐわんと殴られたように揺さぶられた、ような気がした。
知っていた。殉職した、とレナがいた南の海の支部から連絡を受け取るよりも前に、記憶が戻った瞬間に、スモーカーはレナが死んだことを強く感じていた。だというのに、誰もが殉職以外の言葉を使わなかったから、スモーカー自身も口にするのを躊躇っていたから、だからこんなにもヒナの言葉に動揺していた。


「たまたま任務からの帰還ルートにレナが勤めていた支部があったから立ち寄ったの。ついでにレナの私物も持って帰ったわ」


ヒナは書類で散らかった執務机で何かを探している。


「今までの絵はがきはどうしていたの」
「……絵はがきは昨日届いた一枚を除いて全部捨てていた。気味が悪いと捨てていたらしい」
「しょうがないわ。あのときのあなたにレナとの記憶はなかったんですもの」
「……そうやって、割り切れるわけねェだろ」
「そうね」


ヒナの手がピタリと止まる。探していたのはペーパーナイフだった。ヒナは腕に抱えていた封筒に見つけたペーパーナイフを押し当てる。


「あなたは愛されていたわ」
「……そうだな」
「これほど想ってくれる人なんてきっとレナくらいよ」
「あぁ」


封筒が開けられた。取り出されたものは数枚の絵はがき。


「これ、レナの部屋にあったの。今までスモーカーくんに送った絵はがきと合わせて百枚。その一枚一枚にレナはあなたの好きなところを書いていたわ。よく書けるものね。ヒナ感心」


はい、と差し出された絵はがき。どの絵はがきにも海が描かれていた。


「あなたが忘愛症候群を患ってすぐ、レナは南の海への異動が決まった。それを私に知らせてくれたとき、彼女は絵はがきを百枚送ったらあなたのことを諦めよう思う、と話してくれたわ。きっと気持ちに区切りをつけようとしたのね」


スモーカーは絵はがきを捲る。


≪葉巻が似合うところ≫
≪背が高いところ≫
≪大雑把に見えて案外几帳面なところ≫
≪強面の顔をちょっと気にしているところ≫
≪私が泣きたいときは静かにそばにいてくれるところ≫
≪たとえどう言われたとしても信念を曲げないところ≫
≪私を好きになってくれたところ≫


右肩上がりの流れるような筆跡は間違いなくレナの書いた字だった。





絵はがきをスモーカーに渡したあとヒナは一言二言交わしてすぐに執務室を出ていった。換気をしなさい、としっかり釘を打って。
ガチャリ。
鍵を開けて、執務室で一番大きな窓を開放した。
そよぐ風が新鮮な空気をスモーカーへと運ぶ。
彼女の葬儀は南の海で行われたとヒナは言った。


「水葬か」


海を愛した彼女らしい最期だと思った。
スモーカーの眼前に広がるのは青い青い海。
レナがいなくなっても世界は変わることなく息をする。
そんな当然のことがスモーカーには妙に腹立たしくて、そしてなぜか安心した。


「ゆっくり眠れ、レナ」


墓参りはいつにすっかな。
スモーカーはそんなことを考えながら目を閉じて、カモメたちの鳴き声に耳を傾けた。
いつになく、海が穏やかな日だった。


いとおしむように目を閉じて
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